「蹴猫的日常」編
文・五十畑 裕詞

■2002年8月


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8月31日(土)
「花子のこころくばり/渡部直巳と奥泉光/シンクロとアクション/日本人の血」
 
 忙しい。昨日は徹夜にこそならなかったが、仕事が終了したのは午前零時。夕飯も済ませていないってのに。おかげで夕食難民になっちまった。まだ開いているお店を求めてひたすら西荻界隈を徘徊するが、ご飯を食べさせてくれるお店はほぼ全滅だ。赤ちょうちんのともった飲み屋か焼き肉屋くらいしか開いていない。疲れちまっているから、酒呑む気力も肉喰らう元気もない。困った。結局ラーメン屋さんに入ることにした。ネギ味噌ラーメンと餃子。晩飯にありつけただけ、ありがたいと思うことにした。午前二時三十分、就寝。
 
 連日の午前様で疲労困ぱいしているぼくを、花子のヤツめ気を遣ってくれたのか、今朝は四時半ではなく六時半に起こされた。ありがたい。猫は知らんぷりなふりして、じつは義理堅い動物なんだよな。で、二度寝。十時、ちゃんと起床。「ののちゃん」「発見! ひざポン」「ザ・スクープ」など。十一時三十分、外出。
 
 午後からは某社が主催するライターセミナーに参加する。評論家渡部直巳氏、小説家奥泉光氏の講義。奥泉氏は明日から朝日新聞で連載小説がはじまる。たぶん、今日本でいちばんおもしろい作家じゃないかな。
 
 二十時、帰宅。チゲ鍋をつつきながら、フジテレビで映画「ウォーターボーイズ」を見る。物語はありきたりの青春モノ。ただ、男子高校生がシンクロナイズドスイミングをやる、というアクションはおもしろかった。そうだ。これ、アクションなんだよね。ジャッキー・チェンが脱げ落ちそうなズボンを引きずりながらカンフーでギャングをボコボコにぶん殴るのを見ているのと同じ、ニンゲンの肉体が生みだすアクションなのだ。「ウォーターボーイズ」の場合は、それを男子高校生の友情と努力、そして自虐的、マゾヒスティックな達成願望がそのアクションを支えているという点が、一般的なアクション映画と大きく異なっている。あ、それから主人公への自己投影もしにくいよな。アクションって、いかに観客に自己投影させるかがいちばんの問題だと思うから。
 
 金子光晴「西ひがし」。「どくろ杯」や「ねむれ巴里」にあった潔いほどの極限状態はそのままだが、自虐的悲壮感のごとき感覚はずいぶん薄れたような気がする。日本に帰る、ということが、いくぶんかこころを軽くしているのだろうな。そのかわりに、光晴のこころに重くのし掛かってくるのが「満州事変」だ。またしても、光晴は日本人の血を意識せざるを得なくなる。
 
  
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8月30日(金)
「今日の事件簿」
 
●八時半から事務所事件。
●イマイチ事件
●結局オレがやるのよね事件
●マーボー豆腐で気合いを入れろ事件
●事務処理三昧事件
●まだかなまだかな事件
●真夜中の味噌ラーメン事件
●一日遅れで「モーニング」事件
 
 
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8月29日(木)
「今日の事件簿」
 
●真っ赤っ赤事件
●Mac OS Xのほうが安定しているかも事件
●久々の夢飯カレー事件
●「坊っちゃん」は孤独な活劇だった事件
●金子光晴「西ひがし」読みはじめちゃった事件
●岩ダコのかき揚げ事件
●危うく徹夜事件 
 
 
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8月28日(水)
「うそだ/猫の腹時計」
 
 秋が来た? うそだ。今日は暑いぞ。夏が戻ってきやがった。出戻り盛夏。困ったもんだ。でもまあ、二週間前よりは涼しいかな。というところで手を打っておこう。
 
 最近、花子が必ず朝四時半にぼくを起こす。決まって四時半。誤差は数分しかない。もちろん、ご飯をおねだりするためにぼくの耳もとでにゃんにゃん鳴きさけんだり蒲団をパリパリひっかいたりするのだが、やはり動物、腹時計は正確と見える。毎日続くと困りモンだ。どうしよう。今夜は無視する? そんなことしたら、攻撃がさらに激しくなるだけだろうな。
 
 八時起床。九時、事務所へ。今日もO社ウェブサイトの企画に終始。
 
 十八時、外出。新宿の東急ハンズに行き、生活必需品数点を買い込む。高島屋の高級万年筆コーナーでペリカンのスーベレーンM800を見て、ふっかい溜息をついてから帰社する。
N社カタログ原稿のリライト依頼が来ていたので、それをちゃっちゃと済ませてから帰宅。
 
 夕食は久々に西荻食堂Yanagiにて。さばの竜田揚げ定食。つけ合わせのいぶりがっこに感動。バイトさんに秋田出身の子がいるので、いぶりがっこを仕入れることができるんだと、おばちゃん、得意そうに話していた。秋田は食い物がうまいからなあ。
 
「坊っちゃん」。物語はいよいよ佳境へ。かなりの部分を忘れているので、はじめて読むときに近い興奮がある。

 
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8月27日(火)
「放射熱/山の手蛮語」
 
 八時起床。今日も晴れ。昨日より、いくぶん夏に戻ったような暑さだ。
 
 午前中は赤羽橋にあるT社へ。E社ウェブサイトの件の打ち合わせ。赤羽橋は、西荻よりも二度くらい気温が高いような気がする。たぶん三田のビル群が放つ放射熱のせいだろう。
 
 午後からはO社ウェブサイトに集中。二十三時三十分、帰宅。
 
「坊っちゃん」。あのいさぎよい江戸弁は、ほんとうの江戸っ子がはなしたことばではないと思う。あれは「山の手蛮語」だろう。それにしても、おもしろいなあ、この小説。
 
 
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8月26日(月)
「秋/飽き/美味しんぼみたいだ」

 八時起床。晴れ。残暑ということばの意味が実感できる。そんな感じのする天気だ。日差しも風も秋めいてきた。
 
 九時、事務所へ。一日中O社ウェブサイトの企画に終始。おなじことばかり考えていると、どうしても集中力が途切れ、飽きてきてしまう。つまらなくなってくるのだ。この、どうしようもない怠惰で非生産的な感情との戦いが続く。気が滅入るので、こまめに気分転換することにした。
 
 二十一時、帰宅。テレビで冷凍食品番組の商品開発のドキュメンタリーを見る。「美味しんぼ」みたいだ、と思った。
 
「坊っちゃん」。うーん、かなり忘れている。はじめて読むのと近い感覚がする。赤シャツ、野だと釣りになんていったっけ?
 
   
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8月25日(日)
「早起きちーちゃんとバカモノ猫/ぼったくりバーハンター/バン・ボグート」
 
 六時三十分。マンションのお隣に住むIさんちのちーちゃんの声が聞こえる。ダンナさんと朝の散歩に出かけるようだ。早起きだなあ、感心感心。ぼくらの寝室は外廊下側なので、ちーちゃんたちの声はよく聞こえる。窓を開けたまま寝ていたのだが、窓辺に麦がいたのをちーちゃんは発見したらしい。しきりに「むーむー、むーむー」といっている。ダンナさんが「麦だねー」というと、ちーちゃんは「にゃおーん」といい、そしてまた「むーむー、むーむー」を繰りかえす。麦のヤツ、ちょくちょく廊下で話しかけてくれるちーちゃんが大好きらしく、にゃんにゃんと大騒ぎしている。ちーちゃん親子はすぐに通りすぎてしまったのだが、そのあとも麦めはしばらく鳴きつづけた。
 おかげで、ちょいと寝不足だ。
 この場合、悪いのはちーちゃんではない。もちろんダンナさんでもない。麦だ。バカモノめ。
 
 十一時起床。妙な夢を見た。ぼくがぼったくりバーハンターになっているのだ。ぼくは謎のエージェント。ぼったくりバーに潜入し、客を装い店内を調査する。そして、ぼったくられそうになったところで彼らの正体を指摘し、ヤクザみたいなオッサンと戦うのだ。戦いが激しすぎて、というよりもぼくの乱暴きわまりない暴れっぷりのせいで、バーの店内はおろか建物までが崩壊してしまうこともある。オレってスゲエな、と思ったところで目が覚めた。
 あいにくだが、ぼくにはぼったくりバーにだまされた経験はない。だって、バーとかスナックとか、行ったことほとんどないもん。あ、ランパブはサラリーマン時代に連れていかれたか。でも、ぼったくられはしなかったな。
 
十一時三十分、「ハローモーニング」を見る。ベスト盤が発売されるプッチモニの特集。さよなら、保田。まだ先だけど。ごっつぁん(ローマ字入力だと打ち込みにくいな)は、どうでもいいや。
 
 午後より新宿へ。伊勢丹でTシャツ、靴下、ハンカチを購入。「モダンクラフト展」もザザッと見てみた。つづいて吉祥寺へ。ユザワヤでカミサンの仕事用の紙、ロンロンでベーグルなど。十七時、帰宅。
 
 十八時三十分、「サイボーグ009」。バン・ボグート登場。原作とはうって変わっての、コンパクトでスピード感のある展開。原作の遠回り感と伏線のうまさが醸し出すワクワク感もいいが、こういう「早さ」もアリかな、このほうが時代にマッチしているのかも、なんて思う。008がちゃんと原作通り、ウロコサイボーグにパワーアップしていた点も評価できる。004のなぐさめはチト中途半端だったが。
 
 夕食はお好み焼き。日曜日の定番になりつつあるな。
 
「坊っちゃん」。しつこい生徒たちのいたずら。
「官能小説家」。上野精養軒での、鴎外と樋口一葉の対談。司会進行役は漱石だ。もちろん、こんな事実はない。すべて源一郎氏の創作。
 
 
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8月24日(土)
「キンキンほぐし/アイデアとうまくつきあいたいよ/私は海をだきしめていたい」
 
 ちょいと前までは、朝目が覚めるとエアコンのヤツのせいで身体がキンキンに冷えちまってることが多かった。が、最近はエアコンをつけていなくても、身体がキンキンのときがある。窓を開けっ放しにして寝ているから、原因は外気の冷えにあるのだろう。他愛ないことで自然のスゴサを痛感した。
 
 で、九時起床。身体はキンキン。ラジオ体操でほぐしてやったら全身が軽くなったような気がした。「ののちゃん」を少しだけ見てから事務所へ。
 
 休日出勤。O社ウェブサイト企画、O社(どっちもO社だからややこしいな。別の会社なのだが)アドトレイン企画。土日は電話が鳴らないので集中できる。十九時、帰宅。
 
 アイデアというのはおかしなものだ。妙なときに浮かんでくるので、けっこう困る。ぼくの場合、多いのは道を歩いているときと風呂に入っているとき。歩いているときは鞄から手帖を取りだしてメモすればいいから楽なのだが、問題は風呂に入っているときだ。メモできない。しかたないから、そのアイデアについてずっと考えつづける。でも、風呂というのは意外に忙しい場所で、湯船に使っているとき以外は大抵なにがしかの動作をしているわけだから、いつまでもおなじことを考えつづけるわけにもいかない。あれ、オレ今背中洗ったっけ、なんてことはザラ、ひどいときは髪の毛を二度も洗ってしまうありさまだ。で、そんな効率の悪いことをしている自分に腹を立てているうちに、湯から湧きでた(のかどうだか知らんが)アイデアは、そのほとんどが、湯気とともにどこかへ消えてしまう。運よく覚えていることができたときも、忘れちゃいかんと焦っている。で、どうするか。答えは「フルチンメモ」だ。これしか手がない。カッコ悪いが、しかたあるまい。
 今日は、よし出ようと思った矢先にアイデアが浮かんだ。発想してから風呂を出るまでにしなきゃいかんことは、身体を拭くことと猿股を履き、寝巻きを着ることくらいだったから、なんとか忘れる前にメモすることができた。フルチンメモは、しないで済んだ。
 で、メモってヤツもスゴイ。思いついたアイデアを書き留めているうちに、思ってもみない展開が手帖の上で実現されることがある。たんなることばだけだったものが、書き留めたとたんに流れや構造をつくりだしたり、世界が広がったりするのだ。
 道具がアイデアに与える影響力というのもまたスゴイ。愛用の筆記具を水性ボールペンから万年筆に替えたら、以前より直感的になったような気がする。それでいて、理屈を詰めようとするときもしっかり脇道に逸れずにその世界が深まっていくのを実感できるから、万年筆というヤツはスゴイ。パソコンのアプリケーションソフトに左右されることもある。EG WORD やNisus WriterといったMac用の定番ワープロや、気に入っているKing's Editというエディタソフトなんかを使うと長文の執筆も楽なのだが、これをMicrosoftのWordでやろうとすると、全然だめなのだ。なんでだろ。よくわからん。
 あらためて考えてみると、ぼくはずいぶんアイデアというヤツに振り回されているようだ。でもまあ、アイデアが枯渇していないだけ、マシと考えよう。
 
「坊っちゃん」。うふふ、狸、赤シャツ、うらなり、山嵐が登場。愉しいなあ。喫茶店「それいゆ」で昼飯食ったあとに珈琲をすすりながら読んだのだが、おもしろくてニヤニヤしてしまい、カウンターの隣側に座っていたお美しいお姉さんに変な目で見られた。
「高校生のための文章読本」。プルーストの初期の作品と、安吾の「私は海をだきしめていたい」。後者は何度読みかえしたか、というくらい好きな作品。でも、改めて分析的な観点から読みなおすと、新たな発見がある。それに気づかなかった自分がちょいと情けない。
「官能小説家」。書くことの悲しさについて。
 
 
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8月23日(金)
「サロンパスのにほひ」

 猛烈に肩が凝って、眠れなくなることがある。夕べがそうだった。日記を書きおえ、蒲団に入ってからのことだ。「こころ」をダラダラと読んでいたのだが、なんだか背中が張っている感じがする。おまけに肩が重い。気にしだしたらどんどん気持ち悪くなってきた。中山式快癒器を使ったり肩を回す運動をしたり自分で肩たたきしたりとか、あれやこれやと試してみたが、我が肩一向に楽にならざりければ、我蒲団より這い出でて居間へと向かひ、サロンパスを取り出して己が背中と肩にペタリと貼れり。するとあら不思議、たちまち眠れたじゃありませんか。
 ところが、これによって問題が起きた。麦次郎のヤツ、どうやらサロンパスのにほひがキライらしいのだ。いつもはカミサンの枕(ダブルベッドなのだ)の上でヤツは眠るのだが、サロンパスのスースーとしたにほひに根を上げ、そうそうに枕の上から引き上げてしまったらしい。今朝、花子に起こされて目を覚ましたときは、ぼくの足下のあたりで眠っていた。にほひごときに負けるとは、情けない猫だ。
 
 八時起床。涼しかったが、サロンパスを剥がすと汗でびっしょりに濡れていた。温熱効果が高いんだなあと実感する。
 
 日中はO社のウェブサイト企画とN社のアドトレインの企画に終始。打ち合わせの予定がなかったので、久々に集中して作業できた。
 集中しすぎたのか、夜は頭がぼーっとしてきたので、二十時三十分にいったん切り上げることにした。明日も出勤だ。あーあ。
 
 笑っちゃう。今さら漱石の「坊っちゃん」を読みはじめた。二十数年ぶりに読み返すことになる。当時は「明治時代の元気なにーちゃんのお話だなあ」くらいにしか思っていなかったが、今になって読み返すと、やはり歴史に残る名作、素晴らしいと思う。短いフレーズでキビキビと語る文体は、到底真似できない。五年に一度くらいのペースで読み返してみると、いろいろと新しい発見があるのかもしれないな。ところで、日本人に愛読書についてリサーチすると、一位は毎年この「坊っちゃん」なのだそうだ。ちょっと不思議。「坊っちゃん」と答える人は、おそらく愛読はしてないんじゃないか、とりあえず教科書に出てきた漱石の名前を出しておけばカッコがつくだろう、それくらいの理由で「坊っちゃん」を挙げているのではないだろうか。――なんて考えるのは、やはり野暮なのかな。
「官能小説家」。ホモホモ視姦、樋口一葉。
 
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8月22日(木)
「春琴抄」
 
 昨夜は酒を一滴も飲まなかった。だからだろうか、ちょっと体調がよい。今晩酒を飲んだら、明日の朝の目覚めは悪いのだろうか。
 
 七時四十五分起床。また仕事が立て込みはじめたので早めに出社することに。
 
 十時三十分より、不動産会社N社アドトレインの打ち合わせ。十四時帰社。十五時三十分より、デザイナーT氏とO社ウェブサイトリニューアル提案の打ち合わせ。夕方からはO社の企画、IT企業N社カタログの原稿修正など。二十二時、帰宅。
 
「春琴抄」読了。自虐的な献身愛の物語とでもいうべきか。肉体的に対等になることで通じ合える愛のかたち。心理描写を排し近代小説風のキビキビした文体がテーマとうまく合致していると思った。谷崎もいいな、なんて思いはじめている。
「官能小説家」。鴎外と漱石にはさまれて酒を飲むタカハシさん。ちょっとおもしろい箇所があったので引用。どうしてここに――現代に――ふたりの文豪は現れたのかという問いに対する、鴎外と漱石の答え。


「いいとも」漱石はいった。「おれたちは選んでここに来たわけじゃないんだよ」
「つまりな、来られるとしたらここしかなかったわけ。わかるか?」今度は鴎外がいった。
「他の時代とかには……」
「だから、低能だっていうの。おまえねえ、あの時代と過去の時代とかどの時代にでも自由に行けるなんてSF作家の妄想なんだよ」漱石がいった。
「未来とかもですか?」
「バカ! 決まってんじゃん。未来なんてないんだよ。わかるか、頓馬。歴史ってのは過去と現在しかないんだよ。だから、おれたちはここへ来るしかなかったんだよ。現在ってのはここだけなんだよ」
「ここって」おれは立ち上がり、あたりを見回した。冴えない飲み屋があった。でも、そういうことじゃないのだ。それぐらいはおれにもわかっていた。
「ここなんですね」
 漱石と鴎外は悲しそうに首を縦にふった。
 なぜだかおれには理解できない理由でやつらはやって来た。でもって、やつらはここにしか来れなかったのだ。おれなんかのいるところにしか。
 おれは心の底から申し訳ない気持ちで一杯だった。ほんとのところ、おれにはよくわかっていなかった。しかし、やつらが気の毒なはめに陥ってしまっていることだけはわかっていた。


「気の毒なはめ」かぁ。情けなくなってくるなあ、ことばをあやつっている自分が。現代に生きて、小説や文学とはちと違うけど、広告の世界で、なんだけどさ。状況はたいして変わらない。
 
 
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8月21日(水)もう語呂合わせはやめた
「アポなしの秋/バクチだね/脱帽」
 
 おお。涼しい。秋の気配は忍び足でやって来るものだと思いこんでいたが、今年の秋はアポなしでいきなり押しかけてきたようだ。でも、外ではまだ蝉が鳴いている。
 
 八時起床。九時、事務所へ。朝から夕方まで、T社の原稿に終始する。飽きるなあ。二十時、デザイナーOさん来社。O社のウェブサイトリニューアル提案の打ち合わせ。斬新なアイデアが浮かんだ。問題は、受け入れられるか否か。ちょっとバクチだねと話しあう。二十一時三十分、打ち合わせ終了。T社の原稿の最終チェックをしてから帰宅。二十二時。
 
「官能小説家」。作中作中作中…作品。まいった。脱帽。
 
  
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8月20日(火)ヤニゼロの日
「ザラザラ。誰を許す?」
 
 うわ。Macのキーボードがザラザラ。マウスもザラザラ。マウスパッドもザラザラだ。マウスをちょいと動かすたびに、チャリチャリとミクロ単位のイヤな音が聞こえる。ああ、窓を開けておいたからだな。台風一過、今日はその余波で風が強かったからなあ。めくれあがるスカートを押さえつつ歩いているご夫人を何度か見かけたっけ。風のおかげで、今日はちょっと涼しかった。これに免じて、ザラザラの件は許してやろう。って、オレ、誰を許すんだ? 気象庁?
 
 七時三十分起床。ちょいと忙しいので、いつもより三十分早めに出る。午前中はT社取材内容のまとめの清書など。午後より大崎、代官山。
 
 二十一時三十分、帰宅。「なんでも鑑定団」「MUSIX」と、テレビ東京の番組を立てつづけに観る。おお、ソニンちゃんが出てる。新曲「カレーライスの女」をはじめて聴いた。おお、これいいじゃん。ソニンちゃんには、この曲のような「他愛のないシリアスさ」がよく似合うらしい。
 
「春琴抄」。完成度の高い小説を書くには、やはりお勉強が必要なんだなあ。この作品、江戸末期から明治にかけての大坂の町民文化がよくわかる。それはそうと、なんだか少しだけこの小説が愉しくなってきてしまった。谷崎は好きじゃなかったんだけどなあ。
「官能小説家」。作中では、桃水は絶対に男色家にされちゃうんだろうなあと思いつつ読んでたら、やっぱりそうなった。でも、夏子とも一夜をともにしているんだよなあ。「一葉」のペンネームについてのくだりは名文だと思う。
 
 
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8月19日(月)俳句の日
「今日は書くことがあまりありませんでした」
 
 激しい雨音と蒸し暑さで、今ひとつ熟睡できず。それでも七時四十五分起床。台風は上陸こそしないようだが、それでも関東地方は激しい雨に見舞われているようだ。台風が降らす雨には波がある。豪雨と豪雨のあいだを狙うようにして出勤。さいわい、びしょぬれんされることはなかった。
 
 十一時、銀座へ。午後より化粧品会社T社の広告担当者にインタビュー。帰社してからは、インタビュー内容の整理に終始。骨格が見えてきたので、二十一時に退社する。
「官能小説家」。夏子と桃水の情事。美しいとは思うのだが、でもなぜかこういうのって好きになれないんだよなあ。
「春琴抄」。妙薬口に苦し。名文脳に苦し。どうしても谷崎の文章は好きになれない。
 
 
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8月18日(日)はいやーの日
「ウンコ出たのか/チャリティに思う/待望のヨミ/谷崎はダメなのよ」
 
 また噛まれた。花子に。ちっちゃい前歯でちっちゃく噛む。午前四時五十分のことだ。毎度毎度のことだが、こればかりは慣れない。もう、やめて。お願いだから。オレの眠りを、妨げんといて。
 仕方なしに起床、ご飯をあげることに。リビングの真ん中にウンコが落ちていた。花子のものらしい。ははあ「ウンコ出たよ」って、
言おうとしたんだな。そうか。ウンコ出たのか。よかったな。だからって、リビングにもってくるなよ。
  
 十時、ちゃんと起床。テレビのスイッチを入れると、日テレで上田馬之介のドキュメンタリーが放送されていた。ああ、二十四時間テレビか。この番組、表面上は素晴らしいが裏側がけっこうイロイロあるらしいので、どうしても好意的に観ることができない。ふだん、コンビニでもらったお釣りをユニセフの募金箱に入れたり、自分にできるささやかな募金はしているのだが。
 今年のパーソナリティはモーニング娘。高橋愛や紺野にはがんばってほしいと思う。
 
 午後からは、趣味の駄文書きに没頭。夕方、ちょっと疲れたので横になる。
 
 十八時三十分、「サイボーグ009」。おお、待ちに待った「地下帝国ヨミ編」だ。若干物語の構成が変わっているようだが、ちゃんと小山田やメリーも出てきたし、バン・ボグートも登場した。008の首から下も超超音波怪獣にやられた。これは期待できるかな。
 
 夕飯はスリランカカレー。先日購入した「カレーの壺」という名前のスリランカカレールーを使ってみた。ちょっと酸味があって、なかなか本格的。ココナッツミルクがなかったのでヨーグルトと牛乳で代用したのだが、ここにココナッツの甘い香りが加われば、もっと美味しくなったと思う。我が家の新定番かな。
 
 谷崎潤一郎の「春琴抄」を読みはじめる。谷崎の作品はあまり好きではない。文体がダメだ。テーマもダメだ。この作品はその極みかな。でもこの作品、月末に参加するライターのセミナーで副読本として使われることになっているので、読まなきゃイカンのだ。
「官能小説家」。夏子の書いた小説を、ろくに読まずに破りすてる半井桃水。小説に保身はあり得ない、ということかな。
 
  
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8月17日(土)はいなーの日
「みそっかすアナキン/十四金で二千五百円/はじめての宇野千代」
 
 悪夢。内容はよく覚えていないが「エピソード2」と深くかかわっているのは確かだ。あの、つたない性欲まるだしのアナキンの上目遣いな笑顔が脳裏に焼きついて離れないのだ。
 というわけなので、どんなストーリーにしたら「エピソード2」はおもしろくなったのかを自分なりに考えてみた。
●アナキンは馬鹿でうんこたれでハナタレのみそっかすジェダイ。子どものころは「予言にある、フォースにバランスをもたらす者」といわれていたが、今は任務中におしっこをもらしてしまったり、ライトセーバーのスイッチをいれたら向きが逆になっていたので光が地面に向かって伸びてしまい、自分の太ももをグサリとやってしまったこともある、ジェダイはじまって以来の劣等生だ。しかし、こころは誰よりもやさしい。
●そんな劣等生の彼が、なぜかアミダラの護衛を任されることに。アミダラはアナキンのことをよく覚えていたが、アナキンは馬鹿だから全然覚えていない。アミダラ大激怒。
●師オビ=ワンが囚われ、アナキン、アミダラとともに助けに行く。アナキンはここでも失敗を繰り返すが、なんとか師を助け出し、敵を追いつめ、最終的には勝利を収めることに(このあたりに、クローンの話が出てくるといいのかな)。この経緯のなかで、アナキンははじめて、戦うことの意義とフォースのなんたるかを知る。馬鹿さに隠れていた才能も、ようやくかたちとなって現れはじめる。最強のジェダイの予感。
●ちょっとみちがえた感じのアナキンに、アミダラがぞっこん。オビ=ワンも彼を見直す。
●アナキン、見習い期間を終えてひとり立ち。でも、やっぱりまだ馬鹿だ。頭にはいつも寝癖があるし、服はたいてい裏表か後ろ前で着ている。鼻くそをほじくって、それをペロリと舐める癖も直らない。
●なぜアナキンは強いジェダイに成長したのに、まだ馬鹿なのか。その理由が、アミダラだけはわかっている。それは、彼はいまだに「純粋な少年のこころ」を抱き続けているからだ。そんな一面に、彼女は魅かれた。
 
 こんな物語はどうだろうか。続く「エピソード3」で、純粋なこころをもつアナキンはダークサイドのちからを知り、正義の非力さを思い知らされ、アミダラとの愛のはざまで暗黒の誘惑に負け、魂を悪魔に売り渡す。そのときから愛すべき馬鹿っぽさは消え去り、彼は別人へ、すなわちダース・ベイダーへと変貌するのだ。
 なんて、こんなのダメだろうなあ。苦笑。
 
 九時三十分起床。今日は出勤。月曜日に控えたT社取材の準備をするためだ。準備そのものは二時間程度で終了。十五時、退社。
 
 夕方は新宿へ。伊勢丹にて、カミサンが気になるといっていたYohji Yamamotoのフレグランスをチェックする。パッケージデザインがすばらしい。香りのほうは、なんだかよくわからん。
 七階の文具売り場へ。高級筆記具のコーナーで、ペリカンの十四金ニブをつかったコンパクトデザインの万年筆が、なんと二千五百円で売り出されていた。ワオ。衝動買い。インクはモンブランのブルーブラックを愛用しているので、コンバーターも一緒に購入。しめて三千円。手帖専用で使おうと思う。うっしっし。
 続いて同フロアで行われていた九州物産展へ。九州といえばトンコツラーメンしか思い浮かばなかったが(失礼!)、よく考えるといろいろあるんだよな。焼酎、明太子、長崎カステラ、黒豚、奄美のフルーツや野菜、薩摩揚げ、などなど。紫いもでつくった焼酎「さつま紫金色」を試飲させていただく。わ。これはいい。香りの確かさと味のひろがりは、
いままで飲んできた芋焼酎のなかでも最高クラスだ。これを買わずに帰れるか。酒飲みがすたるわ。というわけで、購入することに。今日は衝動買いが多いわ。いけないわねえ。
 
 帰りぎわに荻窪のブックオフにて、宇野千代「生きて行く私」、中上健次「十八歳、海へ」、夏目漱石「三四郎」購入。なんか、バラバラだな。カミサンは八十年代の少女マンガを何冊か買ったらしい。マイブームなんだって。
 
 例の焼酎は、今日は飲まないことに。泡盛の古酒とビールで過ごす。休日モードだな。
 
「官能小説家」。啄木の影響を受け、伝言ダイヤルにはまりかける鴎外。「日本文学盛衰史」とつながるエピソードだな。
 
 入浴中に突然、源一郎氏の作品「ゴヂラ」がなぜ「ゴジラ」でないのかがわかってしまった(ような気がした)。この小説は、漱石への、鴎外への、ブコウスキーへの、愛する石神井への、そして前妻高橋直子氏へのオマージュなんだと思う。たぶん。
 
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8月16日(金)はいろーの日
「くれ/今さらエピソード2評/ねむれ巴里」
 
奇跡だ。休みだ。夏休みだ。一日だけだけど。
 と書いてはみたが、じつはさほど喜んでいない。ここまで働きづくめになると、正直いって夏休みなんてどうでもよくなってしまう。休みは必要なのだが、「夏」という冠詞はいらん。いらんというより、どうでもいい。あってもなくてもいい。ヘソみたいなもんだ。ああ、もうどうでもいいから、休息の時間をくれ。くれ。くれ。
 
 なんとかとれた休みだ。有意義に過ごさねば、なんて全然思わなかったのだが、そのせいなのか、そうではないのか、からだは睡眠をほしがるが、その一方で、なにものかが耳元で「はよう、おきんしゃい」とつぶやく。いや、そのような意味に聞こえる鳴き声でぼくを呼ぶ。からだのうえに乗る。からだをもむ。噛む。花子め。まったく。というわけで、九時十五分に起床。アヂ。
 
 十三時より外出。この貴重な一日を、「スターウォーズ エピソード2 クローンの攻撃」にささげようってご趣向だ。それにしても、この映画のタイトルって長いなあ。
 十三時四十分ごろ、銀座着。プランタンでカミサンのカットソーとバッグを購入してから、マリオンのてっぺんのほうにある日劇へ。有楽町で映画を見るのははじめてだ。
「スターウォーズ」。物語はだいたいこんな感じだ。大昔、「ジェダイ」と名乗る騎士団がいて、そいつらは銀河共和国とかいう連中を守っていた。ジェダイはフォースと呼ばれる超能力を使って戦うが、それは「幻魔大戦」の東丈とかソニー・リンクス、「サイボーグ009」の001ことイワン・ウィスキーなんかが使うものとは比べものにならないくらいお粗末なちからだ。もちろんエスパー魔美よりもバビル二世よりも「ドラゴンボール」の孫悟空よりもゲゲゲの鬼太郎よりもよりも弱い。面子を重んじ、厳しい戒律ばかりを強制するジェダイ、表面上は精神主義的なくせに、どういうわけかヤツらはライトセーバーとか宇宙船とかジェットバイクとかR2-D2とかC-3POとか、覚えきれないくらいたくさん登場するいろんな機械にバンバン振り回され続けていて、はたしてそのためなのかどうなのかは知らないが、ジェダイのなかに色ボケしたやつや寝返ったヤツなんかが出てきたりして、ボロが出だしたと思ったら、あっという間に共和国は崩壊。帝国を名乗る連中が台頭し、銀河中の民衆に圧力をかける。そして侵略戦争。ナチスのファシズムのSF版だ。これに業を煮やした一部のニンゲンは反乱軍を結成。そのなかに、かつて色ボケして悪に寝返った元ジェダイの悪玉(コイツのお面がナチスのヘルメットそのもの!)の息子がいて、ジェダイの大親分だったヨーダという緑色のちっこいじいさんの修業を受け、強くなり、そいつが父ちゃんをドタンバで改心させる。父ちゃんは悪の総元締めみたいなもっと悪いヤツにやられて死んじゃうのだが帝国はその息子の友だちを中心とした反乱軍の活躍でみごと崩壊し、銀河はふたたび平和になった。アメリカ人が大好きなハッピーエンドで物語は終わる。友情、努力、勝利。それから愛。
 で、今回の「エピソード2」。いやはや、噂には聞いていたが物語はお粗末の極みだ。先に紹介したあらすじの「はたしてそのためなのかどうなのかは知らないが、ジェダイのなかに色ボケしたやつや寝返ったヤツなんかが出てきたりして」の部分が今回のお話なのだが、まさにこれだけ。これだけの内容でしかないのだ。それ以上の要素は、なーにもない。
 若きジェダイ、アナキン・スカイウォーカーが「ダース・ベイダー」へと変身する直接的な動機は次回作で語られるのだろう。今回はその伏線となるようなエピソードが寄せ集まって、ひとつの大きなエピソードをかたちづくっているのだが、いかんせん構成力が弱すぎて、ちいっともおもしろくない。観客は「エピソード4」以降の、いわば物語の未来に相当する部分を知っているので、どんなに伏線を張っても、すべてお見通しになってしまうのだ。よほど刺激的で予想不可能なエピソードを挿入しないかぎり、「スターウォーズ」がコアなファン以外からそっぽを向かれてしまうのは目に見えている。ルーカス、観客を馬鹿にしすぎてないか? 「エピソード2」を観た観客のうち九割は、なんとなく漠然と「あー、この人が悪に転ぶの、わかるわぁ」と思ったに違いない。それがよくないのだ。頼むから、オレたちを裏切ってくれ。先の読めた未来なんて、つまんねーぞ。
 物語についてはこれくらいにしておこう。もっとスゴかったのは、登場人物の「演技」だ。とくにアナキンの名演技ぶりはすばらしい。彼がアミダラを見る目、これが思春期のエロパワー全開なのだ。上目遣いに、はんぶんにやけながら美しいアミダラを見つめる視線と表情から読み取れるのは、純粋な愛の感情ではなく、素直すぎて恥ずかしくなるくらいの性欲だ。いやあ、すごいですねえ。美しきスペース・オペラにあの視線。これは新鮮な演出だよ。まったく。やれやれ。
 ジェダイの騎士たちの戦いっぷりも、これまたスゲエ。生死を賭けた戦いであるというのに、オビ=ワンもアナキンも緊張感がなさすぎる。動きも洗練されていない。優れた剣士だけがもちうる、敏速な判断力と剣技の美しさがみじんも感じられないのだ。まあ、これはスターウォーズ全作品に共通することなんだけどね。アナキンの片腕を切り落としたヤツ、日本の剣道やってる中学生と戦ったら負けるぞ、絶対。
 文句ばっかりのようだが、賞賛できる部分ももちろんある。CGだ。特筆すべきは、やはりヨーダ。前作までは人形だったのだが、今回からCGになった。人間以上の名演技には舌を巻いた。きっと、今度のアカデミー賞で主演男優賞(助演かな?)をもらえるでしょう。
 ぼくが「スターウォーズ」にたいして複雑な気持ちを抱いていることは、この日記でも何度か書いた。今回の「エピソード2」は、その「複雑な気持ち」をさらに深めてくれる、なんとも貴重で厄介な作品だった。「エピソード3」で、ぼくのフラストレーションがきれいさっぱり解消されることを望みたい。この文章の途中でも書いたが、ルーカスに残された道は、観客をいい意味で裏切ること以外にない。誰もが想像しなかった展開を見せてほしい。「エピソード3」でもアナキンはダース・ベイダーにならないとかね。で、「このお話は、『エピソード4』以降とはまったく関係がありません」なんて言いだしちゃったりして。これじゃ、いい意味での裏切りにはならないか。ははは。

「ねむれ巴里」。ようやく読了。無謀な大陸生活で金子光晴が味わったさまざまな苦しみは、絶望なんて生易しいことばで語られるようなものではない。絶望のなかに見え隠れする希望? そんなきれいごとも、ここにはない。居直り? そんな単純な態度でくくれるはずがない。
 人界の底辺で、生きる。なにをしてでも、生きてみせること。この作品にあるのは、その体験、事実だけだ。この「事実」を客観的に受け止めることができる「視点」を手に入れたことがたいせつなのだ。帰国後の金子光晴一連の作品から読み取れる痛烈な文明批判、日本人批判、外来文化至上主義批判は、この体験があったからこそ、重さと美しさのある作品となったに違いない。
 


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8月15日(木)ハイ、ゴーの日
「夏休みなんて/悶え苦しむ/この一瞬のために」
 
 ひさびさに惰眠。惰眠。惰眠。五時、花子にご飯をせがまれ一度起床。ふたたび惰眠。九時起床。暑い。眠たさが暑さに変換される。頭はぼーっとしたままだ。
 
 十時三十分、事務所へ。依頼を受けた仕事は昨日で一段落したが、まだ事務処理などの雑務が山ほど残っているのだ。夏休みなんて言ってられない。エアコンのフィルター掃除、通帳記入、伝票整理、帳簿付け、溜め続けた日経新聞、四週間分一気読み。そして切り抜き作業。これで夕方まで時間がつぶれてしまった。あらら。
 十六時、予約しておいた「プラス・ド・ルポ」へ。六十分コースでマッサージ。腕の付け根の部分をモミモミされたとき、痛くて悶え苦しんでしまう。恥ずかしい。
 
 十七時過ぎ、ふたたび事務所へ。カミサンが来年三月に予定している個展に出品する「絵本」の企画を考える。ぼくが作、カミサンが絵。夫婦初のコラボレーション創作だ。ここ数ヶ月間あたためつづけてきたお話なので、二時間くらいの作業ですんなりまとまってしまった。
 書くという行為は魔法にひとしい。長いあいだ自分のなかで繰り返し構成しつづけ、文章にしつづけていた内容が、書きだしたとたんに別の色彩を帯び、予想もしなかった世界が広がっていく。この体験があるからこそ、文章を書くのはたのしいのだ。この一瞬のために、ぼくはことばを綴る。そういっても過言ではない。
 と書いたら、変換ソフトめ「加護んではない」と表示しやがった。オレのMac、モーヲタ化しているらしい。まいった。
 
 夕食はダッカルビ。食欲は出るし、手軽だし、おまけにビールも美味くなる。忙しい夏にふさわしい料理だ。
 
「官能小説家」。樋口一葉に小説を手ほどきする半井桃水。その様子が、ほとんど「一億三千万人のための小説教室」にそっくり。例文として、金子光晴が引用されていた。ふふふ。
 
 
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8月14日(水)はいよの日
「インコバテバテ/高円寺がキライになる理由/陶芸家」
 
 七時三十分起床。八時前は気温がまださほど上がっていないので、ほんの少しだけ快適だ。インコたちもご機嫌。カミサンの話だと、十時三十分ごろからインコたちが暑さに負けてバテはじめるらしい。それがエアコンを入れる指標となるのだそうだ。鳥が暑さに耐えられなくなったら、自分も我慢するのをやめるんだって。ふうん。
 
 八時三十分、事務所へ。早々にデザイナーO氏にあげていただいたO社ホームページのデザインをチェック。問題ないので、そのまま企画書に落とし込んで納品。この次点で九時三十分。間髪入れずに賃金台帳のチェックやら算定基礎届の記入やら。書類一式を抱えて、十時、事務所を出る。高円寺にある社会保険事務所に、一年間の社会保険料の基準額を決めるための「算定基礎届」を提出しなければいけないのだ。毎年八月の定例となっている。
 ぼくは、毎年これがイヤでイヤでたまらない。高円寺まではわずか三駅しかないのだが、問題はそこから先。社会保険事務所は、駅からあるいて十分ほどの場所にある。環七まで出て、あとは延々と環七沿いを歩き続けるのだ。途中、日陰はほとんどナイ。なんでって、また、八月なんてイヤな時期にこんな手続きをしなきゃいけないんだ。事務所に着いたときには、もうTシャツはグショグショ、猿股までが湿っぽくなっている。
 苦労してやってきたが、手続きはたったの五分で終了。ああ、たどり着くまでの道のりのほうが長くて苦しいなんて、まるで人生そのものじゃないか。なんちて。はははっははは。はあ。
 
 帰りの電車で腹が冷えたのか、猛烈な腹痛に襲われ荻窪で途中下車。ルミネの客用トイレで憩いのひととき。ふう。
 
 十二時三十分、帰社。十四時、けいぞう(♀)参上。続いて、荻窪で「掌(たなごころ)」という名前の陶芸教室を開いている陶芸家、高松さん参上。画家のカミサン、文士のぼくの四人で、しばしゲージツ話に花を咲かせる。けいぞうと高松さんは初対面。陶芸家志望のOLであるけいぞう、高松さんの生き方から大いに刺激を受けたらしい。いいことだ。あやつ、最近イロボケしていたからな。
 夕方、四人で「西荻牧場ぼぼり」にアイスクリームを食べに行ったら、Every Colour You Are のオフ会に参加してくれたSさんにばったり。この店にはよく来るのだそうだ。西荻窪在住ということだったので、いつか会うかななんて思っていたが、まさか女の子三人連れてアイスクリーム屋に行ったらバッタリ、なんてね。奇遇。
 十八時、けいぞうと高松さんがお帰りになる。これを機会に、なにかおもしろいことができればいいなあ、なんて思っている。
 
 夜は溜め込んでいた事務処理を少々。もう一ヶ月近く休んでいない。猛烈な眠気を感じたため、二十時、帰社することにする。
 
 帰宅途中に、書店にて、谷崎潤一郎「春琴抄」、夏目漱石「坊っちゃん」「文鳥・夢十夜」、石ノ森章太郎「サイボーグ009 二十二巻 雪割草交響曲編」を購入。「坊っちゃん」なんか、なにをいまさら、なんていわれそうだな。もってなかったんだよ。図書館で借りて読んだんだもん。中坊のころに。
 
「ねむれ巴里」。経済的なアテがことごとくはずれ続ける金子光晴夫妻。八方塞がりなのだが、文体のせいなのか、生来の性格のためなのか、飄々としているところが潔い。困ってはいるのだが、困る自分を、もうひとりの自分が一歩か二歩さがったところからみているような感じ。この視点こそが「鱶沈む」などの作品を生み出したのかもしれない。いや、そのころから四十年近くたったからこそ得ることができた視点であり、客観性であり、文体なのかもしれない。容易にはまねできない、ということか。



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8月13日(火)ハイサイの日
「今日の日記は、自分でもなにを書いているのかがさっぱりわかっていません。」
 
 七時三十分起床。やはり八時前は涼しいなあ。気のせいか「ズームイン」がいつもよりさわやかに見える。が、ぼく自身の心境はちっともさわやかじゃない。もう、グジャグジャ。昨日なんか、キレちゃったもんね。思考回路が。肉体も狂ってきたもんね。急に口のなかが渇いてきたり、耳鳴りしたりだもんね。ストレスのせいだろうなあ。ああ、どうしよう。このまま過労死しちゃうのかな。それだけは勘弁だなあ。サラリーマンの過労死だったら雇用主に文句いえるけど、オレ経営者でもあるからだれにも文句いえないもん。あ、死人に口無しか。サラリーマンも、死んだら自分じゃ文句いえないや。遺族の皆さんがあれこれおっしゃるのよね。
 
 てなこと考えてる暇があったら、少しは頭を働かせたらどうだ。アイデア出せよう。チャッチャと原稿書いちゃえよう。
 なんて状態が続いている。脳の運行が滞っているらしい。ダイヤが乱れているから、考えがあちこちで途中停車したり、はたまた迂回しようとしている。ひどいときには折り返し運転だ。気が散る。気が散る。気が散る。こりゃもうだめだな、と真剣に思ったので、考え方を変えることにした。こんな状況だって、ひょっとしたら愉しめるんじゃねーのかい。ねえ。てなわけで、暢気モードをオンにしたら、あら不思議、なぜか集中できました。はかどりすぎて、今振り返ると、ちょっとコワイくらいでした。あまりにコワかったので、今夜はおねしょしてしまうかもしれません。

 これでようやく、先が見えた。木曜、金曜は夏休みにできるかな。 
 
 
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8月12日(月)焼津の日
「たまには書くことがさっぱりない日もある」
 
 大パニッ苦。全然仕事が終わらない。ああ、どうしよう。
 とまごまごしているうちに、一日が終わってしまいました。無益。
 
  
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8月11日(日)ハイィッの日
「ウンコな一日」
 
 腹が重い。ウンコしたくなって目が覚める。九時起床。テレビのスイッチを入れたら「デジタルモンスター」が放映されていた。まだやっていたのか。はじめてこのアニメのタイトルを耳にしたときは、ポケモンのパチモン、くらいにしか思わなかったのだが、日曜九時の放送を見たときに感心したのを覚えている。3DCGを部分的に取り入れた演出、計算され尽くした構図、乱れない絵。連作アニメはクオリティを維持することにいちばん苦労するのではないかと思うのだが、それをこの作品はいともかんたんにやってのける。いや、裏側には想像もつかないような労力と苦労があるのかもしれない。すべては「子どもの期待を裏切らないため」に違いない。うーん、おなじ日曜の十八時三十分から放映されている某アニメのスタッフに見せてやりたいわよ。あ。これ、「サザエさん」のことじゃないよ。
 
 ウンコしながら読む本として、最近はずっと「現代思想の遭難者たち」を読んでいたのだが、アルチュセールあたりからついていけなくなってしまい、ちょっと困っている。勉強しなくてもすらすら読めるのがウリの本なのだが、でもやっぱり「学ぼう」という意識がないと読めない。近代思想は学生のときにかじったからわからなくもないんだけど(って、ほとんど忘れてたんだけどさ)、構造主義以降のことはさっぱりわからん。読んでも読まなくてもおなじだ。ほんとにわからん。ウンコしながら読むには不適切だ。便の出具合や色艶や臭いや量に気をとられているようでは、テキストを読み解くことはできない。難易なテキストを笑い飛ばすいしいひさいちに賛同したり、「その解釈はつまんねえよ」とツッコミを入れることも困難なのだ、ウンコしながらでは。というわけなので、別の本を読むことにした。石ノ森章太郎(一発で変換しろッてぇの)「マンガ家入門」だ。「サイボーグ009」が大好きだった小学生のころに読んだが、なんだか無性に読み返してみたくなり、先日文庫版で発売されているのを見つけたときには飛びつくようにして購入したのだが、カミサンに「ためになるよー」と勧めたまま、自分ではまったく読んでいなかったのだ。だって、オレはマンガ描かないもん。しかし、クリエイターの視点から読み改めてみれば、新しい発見があるかもしれない。それ以前に、マンガ家に憧れていた無邪気な自分を取り戻したい、なんてノスタルジックな欲望のあるのかもしれないが、まあそのあたりのことはどうでもいい、結局は単純に石ノ森が好きなのだ、アニメの「009」の絵のひどさには閉口するけどって、あ、これは関係ない話だね――と、脱線しちゃったから話をもどそう、とにもかくにも、そういうわけで、二十数年ぶりに読み返すことになったのだ。
 ウンコしながら。
 
 十時、会社へ。ああ、悲しいかな本日も休日出勤なり。O社福島支店のウェブサイトのラフ作成に注力する。
 十三時、昼食をとりに「それいゆ」へ。ローストチキンのピラフとコーヒー。ピラフは美味いが肝心のチキンがちとまずい。なんか、臭い感じだ。ブロイラーかな。
 食後、近所の古書店「猫の手書店」へ。チャールズ・ブコウスキー/中川五郎訳「くそったれ! 少年時代」、ブラウリオ・アレナス/平田渡訳「パースの城」。後者は、大学生のときに買おうか買うまいかさんざん悩んだあげく、結局買わなかったという変な思い出のある本。半額で入手。なんか複雑な気分だ。そういえば、最近は外国文学をほとんど読んでいないのに(ピンチョンの「重力の虹」以来だな。反動かな)、ちょこちょこ買ってはいるんだよなあ。よくないなあ。
 なんて考えていたら、ウン気づいてきた。古本屋にいると、いつもこうなる。本のかび臭いにおいがウンコを誘発するのだ。慌てて代金を払い、領収書ももらい、そのまま本をふんだくるようにして抱え込み、くねくねしながら、眉間にしわ寄せ、内股歩きで事務所に戻る。
 ウンコな日だなあ。
 
 二十時、メドがたったので帰宅。
 
「ねむれ巴里」。旅は絶望を伴うものだ。だから、多くの日本人がやっているのは、甘ったるい「旅行」だ。これ以上の絶望はない、というような心境を飄々と回顧する、スゴイ描写をみつけたので、ちょいと引用。

「どうかしら、一つ、ここらで死んでみる気はないかね。いまのうちならば、おくれ咲で、花のうちでとおるかもしれない」
 彼女が同心しないことを、僕はわかっていた。三十を越したばかりの彼女である。それに、彼女は、パリからなにか習いとろうという殊勝な心掛けを生きる張合いにしているらしい。フランス語もその一つだ。近代美術もそうだ。ダンスもそうだ。流行の服の仕立てかたも、三文映画も、これといってまとまりはないが、ご苦労さまにもなにもかもひっくるめてかついで、日本へ戻るつもりらしい。ことによるとパリは、世界のそう言った連中に手品の種明かしをして得意になっている腹悪なところらしくもみえてくる。すこし厚い敷布団ぐらいの高さしかないフランスのベッドに、からだすっぽりと埋もれて眠っているわれら同様のエトランジェたちに、僕としては、ただ眠れというよりほかのことばがない。パリは、よい夢をみるところではない。パリよ、眠れ、で、その眠りのなかに丸っこくなって犬ころのようにまたねむっていれば、それでいいのだ。

「官能小説家」。半分は作者自身の告白なんだなあ、この小説。自然主義の再現か。読めば読むほど、源一郎氏がおんなにだらしない人に思えてくる。まあ、それが狙いなんだろうけどな。
  
  
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8月10日(土)やっとの日
「ときめかないこころ/渋滞情報」
 
 YMOが一時的に再結成したらしい。なんでも、ユキヒロと細野さんの二人による新ユニット(名前忘れた)のライブに坂本が参加し、シンセサイザーを弾いていったのだそうだ。まあ、たしかに三人揃ったから再結成だわな。こんな話を聞いても、全然こころときめかず、関心も持てなくなっている自分に気づく。音楽を愉しむために遣うお金が、おそらく十年前と今では比較できないくらいに差が開いている。ひと月で数万円もCDを買ってしまい、生活費が足りなくなり頭を抱え込んでいるようなありさまだったぼくが、今では数ヶ月に一枚か二枚程度しか、CDを買わない。音楽、好きではあるのだが、自分の中心からはどんどん遠く離れていくような気がする。
 
 九時十分起床。「ののちゃん」を見てから出社。土日も夏休みもあったもんじゃない。パソコンを立ち上げ、インターネット エクスプローラを起動させると、Yahooがトップページでお盆休み恒例の渋滞情報を報じている。ははは、ぼくは仕事が渋滞状態だ。どうしよう。E社チラシの最終確認、N社原稿、取材準備、O社の東北にある支社のウェブサイトの企画。すべて遅々として進まず。前の仕事が終わるめども立っていないというのに、安易に仕事を引き受けてしまうぼくがすべて悪いのだが、でも自分のせいにはしたくない、、だからすべてはヒートアイランド現象やらエルニーニョやら原辰徳ひきいる新生巨人やら田中真紀子の辞職やら日本ハムの不祥事やらUSJの不祥事やらが悪い、ということにしておく。これなら、精神衛生上も問題ない。
 
 十八時、仕事をいったん切り上げて吉祥寺へ。ユザワヤで万年筆のインク、カルディ コーヒーファームで冷麺、ロヂャースで猫のご飯など。
  
 夕ご飯は手軽にたのしめるお好み焼きで。
 
 テレビ東京「美の巨人たち」。ガウディ。つまらん。切り口がわるい。
 
「ねむれ巴里」。貧窮のどん底で、本人かどうかという確信もないのに、リオンに住むかつての同級生らしき人物に会いに行き、就職の世話なりしてもらおうと、あがきつづける金子光晴。美しい自然を眼前にし、詩をつづろうとするが、ことばが出てこず、困惑する詩人。極限的な状態は、その場から表現力を奪い去る。しかし、それはあとから数倍の価値となって本人にかえってくるようだ。金子光晴しかり、大岡昇平しかり。
「官能小説家」。夏子こと、樋口一葉の初恋。というより、初欲情か。
 
 
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8月9日(金)パグの日
「動物虐待事件に思う」
 
 花子が膀胱炎らしい。おしっこが出ない。あるいは出ても少ない。こんな症状がここ何日か続いているようなので、今日から投薬することにした。が、恐怖である。投薬は今夜からの予定だ。きっと血を見るだろう。またひとつ、ぼくのからだに新たな傷が刻まれるだろう。愛猫で満身生傷男。情けない。
 膀胱炎はつらいのだと思うが、なぜか当の本人(本猫かな)はご機嫌そうで、朝ご飯ももりもりと食べ、人にはスリスリし、「なんかくれ」とおねだりする。ぼくには猫のこころが今ひとつよくわからん。そこが猫の魅力でもあるのだが。
 
 情けないと思うにしろ、気持ちがわからんと悩むにしろ、それはすべて猫という動物にたいする関心、もっと強くいえば愛情のあらわれなのだと思う。ところが、どういうわけかニンゲンのなかには猫に、いやもっと大きな括りでいえばニンゲン以外の動物に興味をもつことができない個体があるらしい。ふつう、そういう種類のニンゲンは、動物の不可解さを恐れ、近寄ろうとしない。ぼくのおばに、そういう人がいる。動物という動物が、怖くてたまらないのだそうだ。
 しかし最近は、外的影響からか不可解なるものから距離を置こうとせず、なんらかの危害を与えることで満足感を得ようとするニンゲンが増えているらしい。じっさいには手を出さないものの、そうしてみたい、という欲求を募らせているモノは少なくないはずだ。今回の2ちゃんねらーのアオリによる動物虐待事件は、この、ニンゲンの不可解なるものにたいする防衛本能のねじれ、のようなものが引き起こしたんじゃないかな、なんてぼくは思っている。
 わからないものは、怖い。しかし、わかろうと思いはじめれば、恐れは次第に影をひそめ、そのかわりに、ぼんやりとした愛情のような、なにか特別な霞のような感情が芽生え、それは少しずつ色を深め、少しずつ大きくなり、やがて恐れのかわりにこころを満たしてくれるはずだ。だからヒトは、動物を好きになる。共生しようとする。――しかし。
 弱者である動物にたいする、卑怯で卑屈な、一方的な暴力――そんなものは、わかろうとしない、愛情でこころを満たすことができない、そんなニンゲンが自己防衛と自己正当化のために勝手にいいだした、情けないひとりよがりなわがままでしかない。
 動物虐待は、だれがなんといおうと、絶対に許されるべきではないのだ。生と死は、安易であってはならない。身勝手な生も、身勝手な死も、けっして許されないものだのだ。
 夕方、ドトールで珈琲を飲んでいたら、となりに座っていた若い主婦ふたりが、こんな会話をしていた。
「中学のころって、けっこうみんないい加減じゃなかった?」
「わかんないよ。覚えてない」
「どうして?」
「だってわたし、中学のころイジメられてたんだもん。一年生のときは全然学校に行かなかったから。なーんにも記憶にないよ。思い出せない」
「え? ……どうしてイジメられてたの?」
「そんなのわかんないよ」
 同級生たちは、彼女を理解しようとは思わなかったのだろうか。
 イジメも動物虐待も、おそらくはニンゲンの本能のいちばん暗い部分に由来する、抑えられない衝動のようなものが引き起こす行為なのだと思う。しかし――わかろうとすること、理性と愛情があれば、その衝動はかならず昇華できるはずなのだ。 
 
 八時起床。九時、事務所へ。午前中はE社チラシ、N社翻訳語原稿のリライト、サイトデザインチェックなど。十五時、銀座へ。広告代理店Z社にて、N不動産のアドトレイン企画の打ち合わせ。十九時帰社。E社チラシ入稿など。
 
「ねむれ巴里」。感心した部分、スゲエと思った文章、この本の鍵になるのではと思われる箇所、そんな要素のあるページに出くわすと、かならずはじっこを折っておく習慣がある。読了したあと、折っておいたページだけを読み返したり、書写してみたりするのに都合がいいからだ。で、この本だが、半分すぎまで読み終わったところで、かどを折ったページがすでに数十箇所。金子光晴に毒されているのか、共感を覚えているのか。なんだかよくわからんが、折ってあるページが増えるたびにご機嫌になったように感じるのは気のせいだろうか。
「こころ」。寝る前に少しだけ。
 
 
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8月8日(木)はっぱの日/ヒゲの日
「なぐさめ/湯気/疲れ」
 
 土日も休まず、週に二三度は午前様あるいは徹夜、という変なリズムの、からだと心と脳にきびしい日々が続いている。すべては自分の営業管理の悪さが問題。イライラするが、家に帰れば猫がなぐさめてくれるので苦にならない。じつは、なぐさめられているとぼくが勝手に思い込んでいるだけの話なのだが。
 
 八時三十分起床。朝から暑い。トリたちが羽をひろげて涼を取ろうとしている。わきの下、といっていいのだろうか、普段は羽に隠れている部分から、湯気がもわっと浮き上がっているような感じがする。見えたわけではないが。かわいそうなのでエアコンを入れてあげることにする。
 
 十時、事務所へ。昨夜よりIT企業N社の米国で配布されたツールの日本語版の作成に取りかかっているが、どうして英語の広告文というヤツはこんなにわかりにくいのだろう。苦戦。
 十七時より代官山のJ社で打ち合わせ。
 
 十九時、帰社。徹夜続きのせいか、疲れ果ててしまいもはや原稿は一行も書けないというていたらく。なさけないが、ここは休んだほうがいいと判断。思いきって帰宅する。
 
 帰宅後は、まず風呂。そしてマッサージ器。仮眠。夕食。
 今日は十二時前に寝ようと思う。
 
「ねむれ巴里」。落ちぶれた伯爵夫人の描写が、嫌悪感を感じるくらいに現実的。肉体のもついやらしさ、汚さをそのままに描写している。
 一昨日から高橋源一郎「官能小説家」を読みはじめている。「日本文学盛衰史」より文体が軽快。
 
 
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8月7日(水)花子の日
「今日の事件簿」
 
●早起きしても朝から摂氏三十度事件
●やってもやっても終わらない事件
●スケジュール伸ばしてください懇願事件
●モロヘイヤ弁当の悲劇事件
●移動中に「ねむれ巴里」事件
●評価は上々事件
●チューチークンラーカオはエビのカレー炒めご飯事件
●もう徹夜はできませんよ体力的に事件
 
 
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8月6日(火)ハムの日
「今日の事件簿」
 
●仕事しかしてないよー事件
  
 
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8月5日(月)バッゴーンの日
「焦るな/もうなにも考えられないや」
 
 昨日の整体が効いたのか、はたまた七時間も眠れたからか、意外にもさほど疲れはたまっていない。まだまだ行けるかな、なんて自信過剰になってみたりもするが、やはり徹夜なんてまっぴらごめんだし、そんな状況に陥る以前の問題として、夏は暑くて疲れるのだから、体力を過信して飛ばしすぎるのはよくないはずだと自分に言い聞かせる。焦るな、ということだ。要約すれば。
 
 日中はIT企業N社ウェブサイトの打ち合わせ、住宅メーカーE社のチラシ原稿、不動産会社N社のキャッチフレーズ。不動産の件、大苦戦。なんせ、一回目の提案から通算して、没案も含め百五十点くらいのキャッチを考えているのだ。もうネタがない。どうしよう。やばいよお。
 
 二十二時、業務終了。もうなにも考えられなくなっちゃったから。
 
「藤原悪魔」。放浪の旅により自我を確立した者による、「電波少年」猿岩石の旅の分析。なつかしいなあ。
 
 
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8月4日(日)ぱよーんの日
「ショックハロモニ/欲求不満整体/初心と作風」
 
 日曜日だというのに、今日もお仕事だ。ということは、愉しみにしている「ハローモーニング」が見られないということになる。ショックだ。例の卒業発表直後の放映なので、なにかあったと思うのだが…。ビデオに撮るのは、なんだか馬鹿馬鹿しいきがしたのでやめることにした。これ、たぶんつまらない自尊心だと思う。
 
 十一時、出社。昨日でO社の企画は一段落したので、手をつけられずにいたほかの仕事に取りかかる。クライアントが変わるということが気分転換になったのか、いつもよりはかどった気がした。
 
 昼食は「それいゆ」にてカレーセット。しっかり一時間休むことにした。最近のお昼休み時間は平均すると十五分くらいだからだ。休むときは、休む。この余裕がいい仕事を生み出す、と思うのだが。まあ、ぼくの場合は休みの日も読書にふけっては気に入った文章を書き留めたり、仕事とは関係のない文章の執筆に夢中になったりと、なんだかんだいってことばとは関わり続けているのであるから、休んでいるとはいえないかもしれないのだが。
 
 十八時三十分、とりあえず今日は業務終了。最近オープンした西荻窪駅前のソフト整体「サン&ムーン」に行ってみる。マッサージよりも、呼吸法を取りいれた変な体操によるソフト整体がメイン。たしかに疲れはとれるのだが、あまり揉まれなかったせいか、ちょっと欲求不満気味だ。
 
 二十時時帰宅。ひさびさに自宅で夕食をとる。これが正常。のはずなのだが。ふう。
 
 金子光晴「ねむれ巴里」。あやしい名簿屋の集金人となる金子。この人、男娼以外はどんな仕事でもやっている。そんな状況に追い込まれるのが「旅」なんだと思う。
 藤原新也「藤原悪魔」。池田満寿男が藤原さんのドローイングを購入し、帰りぎわにひとこと。「オレも、昔はこういう線が描けたんだけどなあ」。ぼくも初期池田ファンなので、このつぶやきはこころにズシリときた。芸術家とは、初心との戦いである。作風の変化は、自由と束縛とのあいだでの戦いの記録である。
 
 
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8月3日(土)ハミの日
「今日は箇条書き」
 
●モーツァルトで余裕。
●けいぞう(♀)に彼氏ができた。
●万年筆はブルーブラックのインクに限る。
●強烈豚骨。
●大戸屋率上昇中。
●忙しくても、たのしまなくちゃね。
 
 
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8月2日(金)ハニャーの日
「十五文字の悲劇」
 
 やばい。仕事が終わらない。全然先が見えないのだ。焦りは生活に乱れを生じさせる。いつもより一時間はやい七時に起床。ちゃっちゃと仕度し、八時出勤。途中「野菜倶楽部」に立ち寄り、モロヘイヤジュースで気合いを入れる。
 
 あとはひたすら仕事に没頭。O社プロモーションの企画、住宅メーカーE社ウェブサイト、などなど。不動産会社N社のコピー、締切がいちばん遠いためについつい後回しにしてしまう。焦るなあ。
 
 午後からは空模様が荒れはじめる。ありゃありゃという間にあたりが暗くなり、気がついたら土砂降りの大雨、おまけに雷がドッカンドッカンと落ち、今の自分のこころに余裕がないからだろうか、なんだかこの世ももう終わっちゃうんじゃないか、なんていう気になってきてしまう。と思っていたら、いきなり事務所の電源が一度に落ちる。停電だ。うわ。書いていた原稿、大丈夫だろうか。電気は一分くらいですぐに復旧。あわててMacを再起動する。ファイルを開く。おお、消えてる……と思ったら、被害にあったのはわずか十五文字だった。よかったぁ。
 
 午前一時三十分、脳みそが朦朧としてきたので帰宅。今日はぜーんぜん本を読まなかったなあと、スゴク後悔。
 
 
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8月1日(木)パイの日
「モーニング娘。の構造改革/日本の縮図/限界と徹夜/退屈だ/竹の花」
 
 八時起床。テレビのスイッチを付けたらびっくり、なんといとしのモー娘。のごっつぁんこと後藤真樹とケメコこと保田圭が「卒業」するというのだ。しかも、プッチモニやらミニモニ。やらたんぽぽやら、プロジェクトのメンバーも大幅に変更になった。構造改革だ。
 ごっつぁんの卒業は、まあ納得がいく。メンバーのなかでは人気もあるし、雰囲気がちょいと違っていたので最近のモー娘。のなかでは浮いているような気がしていたのだ。問題は保田。ムチャクチャやっている問題児のようだが、じつは保田、モー娘。のなかではいちばん歌唱力がある。プッチモニ「ちょこっとLOVE」成功の秘密は、「スカ」という音楽スタイルをアイドルJポップにもちこんでみたら、それが保田の歌唱力にピタリとはまってしまったところにある、とぼくは分析している。保田のことは評価していたので、今回の発表はすごく残念だ。ソロで実力派シンガーになってほしいとマジで思う。
 それにしても――なっちが卒業しなくて良かった。ほ。
 
 九時十五分、出社。掃除などを済ませて、十時、外出。十一時から新富町で打ち合わせだったのだが、中央線、総武線とも人身事故でダイヤが大幅に遅れている。おかげで五分ほど遅刻してしまった。そのせいか、社内は通勤ラッシュの時間帯のような混雑。三歳くらいの小さな女の子が、押し寄せてくる大人たちの腹やら膝やら股やら尻やらにもみくちゃにされながら、必死でお母さんにしがみついている。ある駅で、親子の目の前の席が空いたので一段落かな、と思ったら、なんだよ元気そうなじいさんめ、そんなことはお構いなしに、オレには座る権利があるんだよと言わんばかりの表情でドカリと座り込みやがった。 日本という国のせせこましさと意地汚さを象徴しているような、そんなできごとだった。
 午後からはO社のプロモーション企画、E社ウェブサイトのデザインチェックなど。企画のほうは、内容が濃すぎて遅々として進まず。焦れば焦るほど考えがまとまらなくなる。ストレスがたまると前に進めなくなったり内容がうすっぺらくなったりするので、企画モノを手掛けているときは徹夜はしないようにしている。今日もヤバイかな、と感じた午前0時に、いったん筆をおくことにした。
 
 帰宅後、風呂にはいりストレッチをしていたら、花子がベタベタとすり寄ってくる。書斎にうつり日記を書きはじめると、花子め最初はついてきてじっとぼくのすることを観察していたが、すぐに飽きたようで、プイとどこかに消えてしまった。かと思うと、リビングからニャンニャンとひっきりなしに鳴き声が聞こえてくる。「退屈だ」といっているらしい。
 
「ねむれ巴里」。エトランジェからみた巴里。見栄と欲望の縮図。
「藤原悪魔」。竹の花って、見たことありますか?



《Profile》
五十畑 裕詞 Yushi Isohata
コピーライター。有限会社スタジオ・キャットキック代表取締役社長。妻は本サイトでおなじみのイラストレーター・梶原美穂。夏休みが満足にとれず、ちょっとストレス溜まり気味。

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