「蹴猫的日常」編
文・五十畑 裕詞

 

■2002年12月


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12月31日(火)
「記憶にない故郷/最後のモー娘。/まあ、よしとしよう/最後の引用」 
 
 故郷の夢をみる。故郷といっても自分が住む東京からはたかだか五十キロしか離れていない古河市という、いつでも気軽に各駅停車の電車で帰れてしまうようなところで、そう大袈裟なものではないのだが、それでも夢をみたあとはなにやら感慨深い気持ちにとらわれてしまう。大晦日、二〇〇二年最後の夢、という点も暗示めいていて不思議だ。内容は漠然としか覚えていない。川が出てきた。利根川だと思う。小学校のときの旧友だったイノブーがいた。イノブーと、お祭りのようなものを見に出かけた。いや、会場で偶然出会ったのかもしれない。わからない。イノブーとぼくは、いっしょに家に帰ることにする。だが、帰った先はぼくの家ではない。古い木造の平屋だ。古びてあちこちがゆがみ、イヤな臭いを放っている。ガタピシする玄関を開けるといきなり居間になっていた。外見より中身のほうが狭い家だ。知らない白髪のババアがひとりで、こたつに入り、テレビをみていた。ババアがふり返った。なぜか、ぼくに「おかえり」といった。イノブーもぼくも、こんなババアはしらない。誰だ、コイツ……。
 ここで目が覚めた。九時三十分。
 
 まだ微熱がつづいているが、一晩熟睡したせいだろうか、夢見が悪かったにもかかわらず、昨日ほど躰はしんどくない。身支度をし、ひとり眠っているカミサンをよそに、家のなかの片づけと掃除をはじめる。台所で食器洗いを済ませてから、鳥籠の大掃除。鳥たちを風呂場に出し、遊ばせておく傍らで、お湯を何度もかけて、乾燥してこびりついた糞をやわらくし、籠のなかをタワシでせっせとこすり洗いする。約三十分で作業は完了。鳥たちもキレイな籠でご機嫌なようだ。つづいて、脱衣所に置いた洗濯機のまわりの掃除。埃がだいぶたまっていた。
 
 朝食後、大掃除の最後のツメを。玄関のドア拭きなど。これで作業完了だが、今ひとつ実感がないのは、すでに掃除を済ませた場所が散らかりはじめているからか。ニンゲンとは片づけと散らかしを繰り返す生き物のようだ。いや、これは生きとし生けるものすべての性、動物の原罪とでもいおうか。
 
 午後、お節料理を受けとるためにカミサンは実家へ。ぼくは病みあがりなので、大事をとってお留守番。読書や書写をして過ごす。ちなみに、今年最後の読書は武田泰淳の『あぶない散歩』、最後の書写は尾辻克彦の『父が消えた』だった。
 
 十九時、入浴。一年の穢れを落とすつもりだったが、これはあくまでも気持ちだけの問題。いつもよりちょいと長めに湯船につかり、躰は二度洗ってみた。意味があるのかどうかは、よくわからない。
 
 二十時より、紅白歌合戦を観る。松浦亜弥とモー娘。以外に興味はない。が、モー娘。が登場するまでは見続けることに。あやや、あいかわらずのはじけっぷりである。モー娘。、特筆すべきことはまったくなし。
 
 二十一時より、テレビ朝日の超常現象スペシャル。つまらん。肯定派対否定派でもっと激しく討論しろ、と思った。
 
 二十三時三十分ごろから、日本テレビの、年越し番組を観る。ナイナイの岡村が焔に飛び込む。爆笑しながら二〇〇三年を迎えてしまった。こんなことでよいのだろうか。最後は尻オチだった。
 
 テレビを観ながら、自分にとって二〇〇二年とはどんな歳だったかを、ぼんやり考えてみた。二〇〇一年は公私の公の部分がガタガタになり、仕事をつづけられたのがふしぎなくらいひどいありさまだったが、二〇〇二年はなんとか現状維持、いやすこしだけ右肩上がりといううれしい結果になった。坐骨神経痛に悩まされることもあったし年末には風邪をひいてしまいもしたが、体調はよかったようだ。金運は低調だったが、欲を出しすぎるのも問題、今年くらいでちょうどよかったのかもしれない。友人関係が大きく変化してきたの点も見逃せない。二〇〇一年あたりから自分に刺激をあたえてくれそうな存在が集まりはじめ、そうでない友だちとはすこしずつ疎遠になっていった。今年は出会いこそ少なかったが、この傾向が顕著に現れたようだ。
 来年は公私ともにさらに充実した一年を過ごしたい。
 
 高橋昌男『夏草の匂い』読了。戦後の生活環境の悪さを知ることができる、貴重な小説。追いつめられた母子が父親の墓参りに出かけるラストシーン。母の気持ちがわかりすぎるのが怖い息子は、母親とじゃんけんゲーム「グリコ」に興じるが、不安は拭いされない。それどころか、ゲームの勝敗が今後のふたりを暗示するかのようにさえ思えてしまう。時代の閉塞感が、このラストに集約されている、と思った。引用。
 
 やがて遊戯がはじまった。だが、どうしたことだろう、康之はつづけざまに四度も勝ち、そのために母とはだいぶ離れた位置に立つことになった。母はほほ笑みながら、石段の一番下に佇んでいる。彼は墓地から離れて行こうとするのに、母は相変らず墓地の中、父の墓の前にたたずんでいる。康之は母に勝って貰おうと必死になった。だが彼には、ジャンケンポンと声に出して手を振る動作が、何か母との別れの身ぶりのように思われてならなかった。そこで彼は不吉な思いを払いのけるように、大げさな身ぶりで、いっそう声を張りあげた。しかしその声は墓石の群れに撥ね返り、まだ夏のものである沸き立つ九月の空に、むなしく消えて行くだけだった。
 
 つづいて色川武大『墓』。伯父の幽霊にでくわす主人公の述懐。この人の作品も、まともに読むのははじめて。『麻雀放浪記』、真剣に読んでみようかと思った。
 
 高井有一『掌の記憶』。自転車にまつわる戦争の記憶は、空襲で我が子を失い精神に異常を来してしまった主人公の友だちの伯母の記憶を呼び起こした。だが、そんな思い出はそう他人にペラペラと話すべきものではない、と主人公は考える。そうこうしているうちに、時代は自転車からオートバイへと移り変わっていく――。
 
 武田泰淳『貯金のある散歩』。表参道を歩く若者のファッションについて感じることを述べているはずなのだが――史上最低の名悪文だ、と思った。引用。
 
 その若者たちの目的を知ることは不可能である。防衛庁も特審局も、彼らの目的が奈辺にあるか、探索することは出来ないだろう。楽しげに、無神経に、彼らは歩いて行く。楽しげに、無神経に、と形容するのは、おそらく彼らにとって不本意にちがいない。真剣に、といった方がよいであろう。それらの心理の浮遊物は、何一つ他人には理解されないまま、目に見えない塵のようにして漂っている。壁のように立ちふさがる亡霊か、ほかの星から来た怪しき生物の「暗示」「命令」をうけとったかのようにして、息をつまらせることなく、われわれは歩いて行く。街頭にあらわれないで家並みの室内にとじこもっている苦悩も感じとられる。それは、もっと奥深くひそめられて、じっと我慢しているにちがいない。耳の外を流れる街頭のささやきは、沈黙のささやきを通じ合っている。それは「神秘なるざわめき」としか称しようのないものである。「ざわめきの聞こえる散歩」だから、サンポなのである。
 
 
 
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12月30日(月)
「古い薬局」 
 
 ほてっているのに寒けがする、そんなおかしな感覚にとらわれる。おでこが燗をつけた徳利みたいになっている。手のひらが熱をもっているようだが、足のほうは冷えていて、ももやお尻のあたりは小刻みに震えているような感じさえする。そこが震源地なのかどうかはわからないが、背筋も震えている。震えに刺激されているのだろうか、腰が痛い、仰向けになっていると痛みが激しくなるので、横を向いてみると、今度は鼻水が出た。鼻の穴の奥にたまっていたのが、バランスを崩してなだれ出てきたみたいだ。喉が二回り以上小さくなったようだ。つばをのみ込むと、背筋や足の震えが二倍、三倍になる。立ち上がったら、腰の痛みが強くなった。あちゃ。これは風邪だ。悪化したらしい。熱を計る。三十七度。微熱だ。困った。
 
 十時、近所の内科医に電話すると、今日はやっているという。あわてて身支度してポッケに保険証と財布を入れて、診療所に向かってみる。入り口で親子連れがウダウダしている。イヤな予感。扉を開けると、人が満員電車のごとく待合室でひしめきあっていた。ほとんどが老人だ。待合室に入りきれず、玄関口で立っている人も多い。外の親子連れは、入りきれなくてあふれ出た人たちということか。これ、全員が病人かと思うと気分がわるくなった。年末に開業する医者が少ないために、荻窪・西荻窪界隈の病人がみんなここに集中したのだろう。これでは何時間待たされることやら。診察は諦め、一旦帰宅する。こうなったら、市販の薬と気合いでなおすほかはあるまい。薬局がある駅まで歩くことに。 冬の晴れた空の色は独特な透明感がある。凛と冷やされた、この透き通った青を空気がつくっているのだろうか。不思議だ。駅に近づくにつれ、大掃除をしている家がすこしずつ増えてくるのも不思議だ。駅周辺は、古くからある家が多い。ぼくが住むあたりは進行住宅が多い。ということは、ウチの近所の皆さんはとっくに大掃除を済ませ、たのしい年末を過ごしているか、早々に里帰りし家を留守にしているのか。微熱でぼーっとしたアタマであれこれ考えてみたら、眼鏡が曇ってきた。マスクのせいだろう。
 西荻窪駅前の、古くからやっていそうな薬局に入ると、白髪混じりの髪を後ろでざっくりと束ねた化粧っ気のないおばちゃんが出てきた。おばちゃんに症状を話して最適な薬はどれかを相談してみる。粉薬は大丈夫かと訊かれたので、オーケーだといったら、漢方薬をベースにした感冒薬を勧めてくれた。それを買うことに。もしこれを服用しても症状がよくならず、腰が強く痛んで立てなくなったり高熱が出るようだったら、インフルエンザの可能性があるから病院に行きなさい、この薬では直らないよとアドバイスも受けた。しばらく話を聞いてから店を出る。やはり古い店はサービスがよい。チェーン展開のドラッグストアでは、こうは行くまい。妙な満足感に浸りながら、ドラッグストアにも立ちより、マスク用のガーゼ、ポカリスエットの粉末などを購入し、帰宅する。ここは薬を買うところじゃないよなあ、と思う。
 
 帰宅後はひたすら寝る。しかし、一向に良くならず。困った。
 
 
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12月29日(日)
「鼻水の出る大掃除」 
 
 夜中、喉が痛くて何度も目が覚める。口のなかと喉の境目の、ちょうどのどちんこがぶら下がっているあたりといったほうが正確か。つばをのみ込むと背中全体がぞくっと震え、こめかみのあたりがしびれる。風邪かな、と思うが、大掃除が一段落していないので、休んでいるわけにはいかない。
 
 十時、きちんと起床。昨日はリビングと和室をテッテ的に掃除した。今日は書斎兼トレーニングルームにしている十一畳の洋間と、四畳半の寝室、それから廊下をきれいにせねば。 
 
 書斎から。大きな本棚がふたつ、不要になったカラーボックス、一昔前に流行したすき間家具を利用して本を保管している。まずは、棚から本をすべて出す。そして、棚をきれいにぞうきん掛け。終わったら、ふたたびしまう。ただこれだけのことだが、なぜか二時間もかかってしまう。本を読みはじめることだけはするまいと誓っていたし、実際ページをめくったりは一度もしなかったのだが、どういうわけか、時間ばかりくってしまった。原因は、ジャンル別の整理という点にあるようだ。外国文学、現代日本文学、近代日本文学、実用書、漫画、辞書と、わが家の蔵書は主にこの六種類に分類される。辞書は机のうえにおき、いつでも引けるようにしてあるから整理対象外。のこりの五種を上手にしまわなければいけないのだが、ジャンルにこまかくこだわりだしたら、きりがなくなってしまった。たとえば、外国文学。これまでは文庫もハードカバーも、アメリカ文学もヨーロッパ文学もラテンアメリカ文学も、ぜんぶいっしょくたにまとめていたのだが、これが気に入らない。日本文学も同様だ。全部わけてしまおうとおもったら、本棚が足りなくなる。しかたないので、本以外のもの、たとえばカミサンの画材や習作がはいっていた棚を開け、そこにも本を入れることに。まだ足りない。今度はすき間家具の出番だ。この家具、うえの部分は棚、下の部分は扉がついた収納スペースという構造になっているのだが、これまでは棚の部分にコピー用紙だとかパソコンのケーブルなどを置いていた。ここに文庫を入れればよい。ケーブルたちは、扉の中に移動。ついでに、扉のなかにあった不用品、たとえばプリンタを購入したときにオマケでついていたCDラベルメーカーのお試しキットや、四年前に買ったが今ひとつ使い心地が悪くてしまいこんだままになっていた九百八十円のマウスなどを、思いきって捨てる。さらに、扉のなかの棚の位置が移動可能だったので、これをうまく調整したら、ケーブル類もコピー用紙も全部上手に収まった。掃除というより、パズルをやっているような気分だ。昔あった『倉庫番』というパソコンゲームを思いだした。じつは、この手のパズルゲームは大の苦手だ。
 
 寝室。四畳半という狭い空間に、こともあろうか分不相応なのだがダブルベッドを無理やり押込め、そこで毎日グースカと寝ている。四畳半のほとんどをこのベッドが占めてしまうので、細かな部分の掃除はついついおろそかになりがちだ。これをなんとかすることに。蒲団をすべて和室に移動。マットレスもはずしてしまう。ベッドの骨組みだけが残る。このしたが、わが家の魔窟だ。花子と麦次郎という二匹の妖怪の棲み家なのだ。おまけに、収納しきれないものや使わないものは、すべて有無をいわさずここにブチ込まれることになっている。それでいて、掃除は年に一度くらいしかしないわけだから厄介だ。古い本が入ったダンボールや、十年くらい前になにを血迷ったか購入しすこしだけ遊んだがそのまま放置してあるファミリーキーボード、以前いた会社が急に解散となり少々方針や事業内容が異なる別会社化されることになったことを知った日にお茶の水の楽器街で衝動買いしたエピフォンのレスポール・カスタム・コピー(エレキギターです)、通勤に使うとたのしいかなと思い購入したがまだ二度しか乗っていないキックボード、カミサンが新婚のころにチマチマとつけ続けていた家計簿がはいったダンボールなどにびっしりと埃が積もり、そこに猫どもの毛が加わり、それ以外の空間には、ひからびた猫のゲロが点々としている。『北斗の拳』に出てくる廃虚でも、ここまで荒れてはいないだろうと思う。こんなところで寝ていたのかと思うと少々ゾッとするが、まあどこの家庭もベッドの下はこんなものなのだろうと割りきり、掃除をはじめる。ここも二時間ちかくかかった。不用品は処分することに。家計簿。これはいらないので、カミサンに捨ててもらった。レスポール・カスタム。うーん、買ったときは三万円くらいしたのだが、もう使わないだろうな。なんせ、ぼくには楽器の才能がまるでないのだ。思いきって捨てることにしたが、いややはりそれではレスポールが浮かばれない。ぞうきんで埃を落とし、きれいにしたところで「差し上げます。ご自由にお持ち帰りください」と書いた紙をペタリと貼って、マンションのエントランス横、ゴミ集積所のあたりに置いておくことに。どういうわけだか、うちの近所では、これがはやっている。天気のいい秋の日に買い物に出かけたりすると、道端に「差し上げます」と書かれたダンボールが置かれているのをよく眼にする。中身はたいてい、ほんとに救いようもないようなガラクタだ。使わなくなった食器が多いだろうか。古びているのだが、きちんと五脚分セットになっていることも多い。旧家も多いこのあたりのことだ、ひょっとしたら銘品が埋もれているのではないかとなかを覗きこむのが癖になっているが、まだ一度も期待どおりになったことはない。レスポール、いい人にもらわれればいいのだが。
 
 このあたりから、鼻水がとまらず。台風のときの雨どいみたいに、出るわ出るわ。おおいに困る。
 
 夕食は水炊き。風邪を引いた躰を内側から暖めようという魂胆だが、うまくいかなかったのだろうか、夜あたりから頭痛がしてくる。こめかみと後頭部だ。ちょっとまずい展開になってきたな、と思いつつ就寝する。 
 
 武田泰淳『貯金のある散歩』。いまのところ、まったく散歩とは関係がない。コミカルだな、と思った。
 
 
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12月28日(土)
「年末恒例/変態さんの気持ち/インコのタップダンス」
 
 十時三十分起床。よく寝た。疲れを蒲団が吸い取ってくれたような気分。夕べはかなりの量を呑んでしまったのだが、アタマのなかも躰もそのわりには軽い。この軽さをいかして、今日は大掃除に徹することに。リビングダイニングと和室を、すみからすみまで掃除する。
 
 不用品の多さに辟易。あまり使ってないものは捨てる、という基準を自分のなかでつくってみた。ゴミ袋は合計で四袋になった。燃えないゴミの年内収集は終了しているので、すこし困る。
 押し入れの奥から、未着用新品の女性用パンツが出てくる。カミサンに訊いてみると、以前通販で買ったのだが、パンツの趣味が変った、というか、こだわりかたが変ったというか、なんだかよくわからないがこのパンツはもう履きたくないという。もったいない。せっかっくなので、よく漫画やドラマで変態さんがするように、そのパンツをアタマからかぶってみる。全然おもしろくないので、すぐにやめた。やはり着用済みのものでないと彼らの気持ちはわからないのだろうか。でも、そんなことをしたらそのまま変態さんに一直線、下手すりゃ家庭崩壊の危機となることまちがいないので、やらないことにしておく。
 
 夕食はピザで手軽に。『めちゃめちゃイケてる!』、モー娘。主演の『三毛猫ホームズ』などを観る。後者、保田のカオがデカイと思った。なっちの顔がちいさいから、よけいにきわだつ。
 
 夕食後、書斎を閉めきってトリたちを籠から出して運動させる。きゅー、ぐるりぐるりと部屋のなかを飛び回ったかと思うと、ティッシュの箱のうえに着地。ティッシュペーパーをつついて遊ぼうという魂胆らしいが、足下がおぼつかないらしく、箱のうえを何度も何度もうろうろと往復しつつ体制を整えているのだが、そのたびに、パカパカパカパカとティッシュ箱に反響された足音が軽快に鳴り響くのが愉快だ。まるでタップダンス。きゅーがほかの場所へ飛んでいってしまうと、今度はうりゃが箱に乗り、きゅーよりも上手にタップを踏んでいる。かと思えば、またきゅーがやってきて、うりゃに「どけ」といい、もう一度ダンスをはじめる。ときどき二羽の口から「ピョロロ」と機嫌よさそうな声がもれている。楽しいのだろうか。ダンスの掛け声のようなものかもしれないな。
 
 武田泰淳『笑い男の散歩』。代々木公園での散歩のくだりがおもしろいので引用。
 
 メーデーの当日は、何となくざわめいていた。音楽もにぎやかである。しかし、メーデー参加者は代々木公園の構内にはいない。はっきりした目的で、集会や行進の時刻を待ち受けている青年男女は、公園の柵の外にいる。
 メガホンで参加者によびかける、よくとおる若い女の声も柵の外でしている。柵の内と外では、ふんい気がまるで違っている。いつか駐車場の上の柵を乗り越えて公園に走り込み、のんびりした公園の空気を彼自身の殺気でかき乱しながら、何か追われているように走り抜けてゆく学生を見た。そのほかには公園で殺気に触れたことはない。音楽に関するかぎり、公園の内と外を流れるポピュラーミュージックの調子は、さほど変ってはいない。どれも楽しげに、ぼんやりと風に流されて聞える。
 笑い男の目にうつる風景は、笑いたくないのに笑っているようで、すべて無責任、無関係にひろがっている。薄白い光の下で、聞きとりがたい声音に充たされている。「うすらバカ」「うすらトンカチ」などという悪口は、悪口ではなくて、わけへだてなく、われわれ人類の上に与えられた神様の批評のように思われてくるのは、恍惚人のよくない癖である。
 
 なんでもないことを、これだけ豊かに書けるなんて。スゲエ。
 このすこしあとにつづく、ソ連人の観光客の散歩をみかけたときに主人公が感じたことを述べている部分も秀逸。これまた引用。
 
 漱石はノイローゼにおちいり、いつも自分が秘密の国家要因から監視されているような気配を感じていた。明治と昭和では、時代がはるかにかけ離れている。しかし、作家をノイローゼにさせる要因は、さほど違っていないようだ。現在の私は、ノイローゼは逃れて恍惚の方に傾いている。明治の漱石とは異なり、監視されているという感じのほかに、もしかしたら、自分が誰かを監視する任務を受けているのではないかというスリルを感じる。見知らぬ遠くの彼方に存在する機関から発せられる命令に従って、一挙手一投足、すべて自分の行動があやつられている。瞬間的にではあるが、そんな妄想が湧く。スパイ映画は出来得る限り見物するようにしている。「スパイ大作戦」もテレビで見ている。あのスパイ映画から、知らぬうちに影響されているのかもしれない。いつか、私のアパートの前で、すれちがった小学生たちが「たいがい、こんなところにスパイが住んでいるんだぞ」と、利口そうに言って、子供らしからぬ鋭い目つきで私を見据えながら去って行った。
 
 
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12月27日(金)
「鼻毛」
 
 八時起床。体が棒になったような気分だが、なぜそうなったのかがわからない。昨夜はカイロプラクティックで体をほぐし、ゆがみをなおしたところだというのに。
 
 九時、事務所へ。今日も吐く息は白く、空は雲ひとつない凛とした冬晴れで、陽射しが寒さによってするどく研がれてしまったのか、目に刺さるようである。こわばりがちな体をほぐすように歩くと、今日もやたらにゴミの山が目に入る。年内最後の不燃ゴミの日だ。昨日のように、量が多いのかなと思ったが、そうでもないらしい。量ではなく、質が異なるらしいのだ。たとえば、大量にビニール傘が捨ててある。そのなかに、七、八年は使っていなかったと見える、煤けてみすぼらしくなった古い洋傘も混じっている。ほかの集積所には、通勤用の鞄や、まだまだ現役で使えそうなスーツケースがどかんと置かれている。ゴミを捨てることは、その物品に見切りをつけることだ。あと五、六年は使えそうだったスーツケースは、いったいどんな経緯をへて、捨てられるにいたったのか。その物語が気になった。
 
 十一時、代官山へ。J社にて今年最後の打ち合わせ。
 帰りの電車のなかで、化粧をしている女性を見かける。二十代前半、まだ学生だろうか。エンジっぽい色合いの、丸みのあるシルエットのハーフ丈のコートに、チェックのプリーツスカートという地味な出で立ちだが、やはり今どきの女性、ああ、また電車のなかで人目もはばからずに変身するのかと思いながら横目でチラリチラリと観察していたら、その女性はバッグからなにやら銀色の小さな道具を取りだした。はて口紅や眉墨にしては小さいな、と思いつつ、よくよくみるとそれは毛抜き。彼女は、それで眉毛をピシッピシッと引っこ抜きはじめた。車中で眉毛の手入れとは、恐れ入った。おもしろいので、横目といわずじっくり観察してやることにする。どうせ、向こうは毛抜きに精神を集中していて、他人の視線なんか産毛ほども気にしてはいないのだ。眉毛のラインがなんとか整ったのだろうか、つぎは、ほっぺたを毛抜きでつつきはじめた。頬の産毛が気になったのだろうか。女性が頬の毛を抜くさまは、カッコ悪さをとおりこして、ほとんど道化だななどと考えていたら、今度は、禁断の領域の毛まで抜きはじめた。彼女は頭を後ろにそらすような形で手鏡に向かい、鼻のしたをビロンと伸ばし、鼻の穴を開き、そこに毛抜きを突っ込みはじめたのだ。毛抜きがくりくりと、なにかをさぐるように動いたかと思うと、すばやく垂直方向に引きおろされる。ピシ、と鼻毛が抜ける音が聞こえてきそうだ。……はて、ぼくはこのまま彼女を観察しつづけていいものだろうか、と悩んでいたら、飛びだしていた鼻毛がなくなったのだろうか、彼女は鏡と毛抜きをバッグにしまいこんでしまった。ああ、気になる毛は抜けたんだな。しかし、そう思うのもつかの間、彼女は十秒後にはもう一度鏡を取りだし、今度は親指と人さし指とを上手につかって、ふたたび鼻毛を抜きはじめていた。残尿感ならぬ、残鼻下感があったのだろう。鼻毛を永久脱毛すればいいのに。本気で忠告してやろうかと思ったが、やめた。そういうことは、他人は干渉すべきではないからだ。毛に関することは、タブーとなることが多い。頭髪も然り、鼻毛もしかり。
 
 帰社後は銀行巡り、事務処理など。本屋にたちより、松浦英理子『葬儀の日』、久間十義『世紀末鯨鯢記』。
 
 十九時、店じまい。カミサンと、納会を兼ねて近所の居酒屋「ごっつお屋」へ。お刺し身、竜田揚げなど。夫婦揃って、ひさびさの外食。年内は最後になるかな。
 
 高橋昌男『夏草の匂い』を読みはじめる。戦後、疎開先から東京にうつり親戚に身を寄せる母子の生活をテーマにした作品。
 
 
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12月26日(木)
「ゴミの葬式(法事なし)/加速する理由/星座の幽霊」
 
 八時起床。晴れ。いつもどおり、なんの変哲もない冬の朝だなあと、吐く息の白さを確認しながら歩いていると、いや、やはり年の瀬なせいか今朝はいつもとは少々趣きがことなっているようで、それが集積所に置かれたゴミ袋の数と大きさ、そしてなんとなく透けて見える中身からじわじわと感じられる。押し入れの中や机の下、タンスの裏側あたりに潜ませていたかさばる可燃ゴミ、なぜか捨てられずに埃をかぶり続けていた燃えるゴミが、あちこちの家庭や事務所から大量発生している。仮死状態のゴミたちが、やっと持ち主に気づいてもらえたと思ったら、そのまま炭酸カルシウム配合のゴミ袋へ直行。いよいよ正式に葬られることになってしまう。大掃除は、忘れられたゴミの葬式でもある。今日は可燃ゴミの日だから火葬されることになる。墓はたてられないから、葬られたあとで供養されることはない。資源ゴミではないから、輪廻転生も、ない。
 
 九時、事務所へ。仕事は一段落しているので、大掃除を進める。BGMにデヴィッド・シルヴィアンの『エブリシング&ナッシング』。掃除の効率アップには、残念ながらつながらない。十四時ごろ、終了。その後は事務処理など。それでも時間があまったので、ホームページのチェックや読書など。
 
 二十時、カイロプラクティックへ。年内最後の治療。夜の吉祥寺駅前は、キャバクラやピンサロの客引きばかりがやたらに目につく。呼び込むほうも、つられて店にはいってしまうほうも、じっくり観察してみたいなあと思うのだが、そんなのんびりしたことをしているとこっちが店のなかに引きずりこまれてしまう。そうでなければ「なにジロジロ見てんだよボケ」と因縁をつけられるのがオチだ。だから、こういう場所はわき目も振らず、首の角度と視線はガッチリ固定したまま、通常の1.2倍程度のストライドと1.5倍程度のピッチで足早に通りすぎることにしている。カッコワルイかもしれないが、カッコヨク通りすぎる必要もないと思うので気にしない。
 
 施術後、帰宅。夜空を見上げてみる。東京の夜空に浮かぶオリオンは、街の明かりに星の明るさが負けてしまうせいなのだろうか、とても貧相で、なんだか頼りない。たしかギリシア神話の英雄だか巨人だかの名前だったと思うのだが、そうだったらもっと堂々と夜空を飾ってほしいものだ。右足に相当する位置にある星は、掠れてしまってあるんだかないんだかはっきりしない。左足はかろうじて確認できるが、やはりボケッとしていて、見ているとイライラしてくる。足があるんだかないんだか、なんて、まるで幽霊じゃないか。
 
 夕食後、録画しておいた『明石家サンタ』を観る。今年は不作かな。マンネリの極み。
 
 結城信一『落葉亭』読了。庭の飛び石を慕って現れる女の幽霊が登場。死を意識することこそが、生きていることの証明なのではないだろうか。そんな逆説的な考えが頭をよぎってしまう。ふしぎなことを考えさせてくれる秀作だった。
 
 島尾ミホ『海辺の生と死』。島尾敏雄の奥さん。喰うために牛を殺す、という話があったのだが、この文章の美しいこと、美しいこと。観察力と感性の賜物。武田百合子の『富士日記』につうじるものがあるかな。
 
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12月25日(水)
「尿の成分は/浮足立たせ/笑い男の『ウフフ』」
 
 五時、花子が発する威圧的な雰囲気に負け、目が覚める。ご飯をあたえてから厠へ。夕べもアルコールを呑んだから、昨朝のようなジョンジョロ現象におそわれるのかもと警戒していたのだが、シャンパンごときではぼくの膀胱はまったくぐらつかないらしく、尿の量はいたって正常だった。ただし、成分がどうだったかはわからない。知る方法もない。
 
 七時五十分起床。ひさびさに『今日のわんこ』を観る。が、とくに感想はなし。
 
 九時ちょっと前に会社へ。O社埼玉支店のチラシとO社本社のキャンペーン企画、ふたつの物件のラストスパートに注力する。午後に納品。これで年内の企画制作業務は基本的に終了。のはずだ。ひと安心。 
 
 十四時、郵便局と銀行へ。街は昨夜のクリスマスムードをまだ残してはいるようだが、かなり「いそがしい十二月」というイメージにもどりつつあるようだ。十二月は、実際はそうではなくても、ニンゲンをむりやりいそがしい気分にさせてしまう。街の雰囲気がにわかに大量のワーカーホリックを生みだすようだ。預金通帳数冊を鞄に放り込んで銀行へ向かうぼくも、仕事は一段落しているというのに、なぜか気が焦る。浮き足立つ。いや、浮足立たせられる。地面が「いそげ」といいながら、足の裏を押しあげて無理やり前へ進ませようとしている……ついつい、そんな妄想にとらわれてしまう。
 
 行列ができるのは人気の店、と相場は決まっているが、銀行の場合はそうでもないようだ。みずほ銀行のATM、入り口から飛びださんばかりの大行列である。
 
 夕方より大掃除を開始する。金曜まで、三日間かけてのんびりやろうと思う。 
 
 十九時三十分、帰宅。義母にもらったサワラの西京焼きと無添加の辛し明太子が絶品だったので、三杯もおかわりした。
 
 武田泰淳『目まいのする散歩』より、『笑い男の散歩』。気になる箇所があったので、引用。 
 
 どこを散歩しても、どこのベンチに腰掛けても、病後の私は笑ったような、笑わないような顔つきをしている。意思表示をするために「ウフフ」と笑い声に似た、はっきりしない声を出す癖がついてしまった。ほかに方法がないので「ウフフ」と答えることにしている。女房は「笑ったような顔をしているけど、本当はそうじゃあなくて、ただ、そういう顔をしているのね」と名言を吐いた。たとえば「あたしも今に死ぬのね。イヤだなあ。いつ死ぬのかしら」と、死にそうもない顔つきで女房に問いかけられるさいは、笑ったような笑わないような表情で「ウフフ」と答えるのが、目下のところ一番無難である。
 
 夫婦ふたりの関係から死生観までを、これだけのことばで一気に語りつくしてしまう。スゲエ。ぼくの駄文が横にならんでいることが、おそれおおく感じてしまう。
 

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12月24日(火)
「ジョンジョロ万国旗/歯は元気/クリスマス、シャンパンと膀胱の関係」
 
 厠が近い夜だった。近いどころの騒ぎじゃない。ほとんど便所がぼくの股間にぴったりくっついていてつねに放尿しているような、いや距離の話ではないのだが、それくらい頻繁に、目が覚め、尿意を感じ、トイレに行き、ズボンをおろし、膀胱を解放し、滴をきり、ズボンをあげ、ふたたび蒲団にもどる、ということを繰り返したのだ。四回は目が覚めた。十二時に床につき、八時に起床しているのだから、一時間から二時間おきにジョンジョロとやっている計算になる。しかも、チョロリでおわったという記憶がないのだ。長い。延々と、ただひたすらに、手品師が口から万国旗を飽きることなく出しつづけるのとおなじような――このたとえは的確ではないかもしれないが、とにかく察してほしい、そんなふうなキリのなさなのだ。もちろん、起きたときに水分を摂取したりはしないので、四回の延々たるジョンジョロは、すべてぼくの体内に潜んでいた、ということになる。人体は九割が水でできているというが、こんなにジョンジョロすると死ぬんじゃないか、出血多量ならぬ放尿多量。死因としては、かなりかっこわるい。
 
 八時起床。軽い宿酔い。ジョンジョロも昨夜呑みすぎたせいなのだろうと思うが、ああ呑んだ呑んだという自覚はまるでない。およばれにいくと、食べること以外にも考えたり行動したりと、あれこれ忙しくなるので自分の腹のなかに、どれくらいの食べ物とアルコールが詰め込まれているのかが、時間が経つにつれだんだん曖昧になってくるらしいのだ。自分ではめいっぱい食べたという自覚はないし、酔っぱらったという感覚も、そのときはなかった。それどころか、食い物も酒もかなり抑えてスローペースにしていたつもりだ。しかし、義父母や義弟とコミュニケーションを図ろうとあれこれ話しかけたり聞きに徹したりと、軽くではあるのだが気を配ってみた結果、自分のからだへの気配りが足らなくなってしまったようなのだ。今朝は胃袋が重く、頭は二分の一個分だけ上にくっついて、不安定に揺れているようだった。
 
 九時、事務所へ。L印刷、O社埼玉支店、O社キャンペーン企画など。案の定、午前中はエンジンがなかなかかからず。かかっても、すぐにエンストするありさまだ。
 
 十四時三十分、一年ぶりに歯医者へ。ぼくが通う並川歯科医院の並川先生は、歯の健康をテーマにしたエッセイを出版したこともあり、趣味で落語もやる変わり種。あいかわらず自分のスタイルに徹した治療方針でがんばっているご様子。歯のほうは、まるで以上なしとのことだった。一年もあけず、半年後に来いと怒られた。
 
 二十時、店じまい。世間はクリスマスムードに包まれているようだが、西荻窪はさほどでもない。ぼくら夫婦も、西友で買い物をしておとなしく帰宅。晩ご飯のときに、ハーフボトルのシャンパンを一本空ける。たちまち酔ってしまった。頭が一個分高い位置にあって、ふらりふらりと前後左右に揺れている感じ。風船になったような気分だ。今夜も厠が近くなるのだろうか。およばれではないから、だいじょうぶだろう。寝るまえに、しっかり搾りだしておこうと思う。
 
 モー娘。が出ている「MUSIX」を観る。なっちを見て、最近カラダがちぢんでるんじゃないかと心配になった。なんだかよくわからんが、ふたまわりくらい小さく見えるのだ。冬だからだろうか。
 
 結城信一『落葉亭』を読みはじめる。六十歳になってから庭作りにいれこむようになった、一人暮らしの初老の男の話。庭に自分の生と死を投影する姿は、どこか古井由吉の『忿翁』とつうじるところがある、と思った。そういえば、文体も似てるかな。
 
  
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12月23日(月)
「大掃除の後遺症/定年間際の特権/月と万年筆/『禁じられた色彩』をデヴィッド以外に歌わせるのは禁止にしましょう/川端の職人芸/見ることと考えること」 
 
 七時、腿のあたりに痛みを感じ、目が覚めるが眠いのでその痛みは無視した。八時三十分起床。立ち上がったら足が筋肉痛におそわれているのに気づいたが、歩けるので気にしないことにしたが、洗面しようとしたら今度は右手が肩よりあがらない。痛むのだ。どうやら、昨日風呂のタイルを力いっぱい延々とこすったときの疲れが肩の関節をヒーヒーいわせているらしい。手のひらも、皮膚が壁かガラス窓か、そんな場所に貼り付けたシールを剥がそうと濡れぞうきんでこすったあとのような、ひどい荒れ具合になっている。カミサンは「水虫の手」と表現した。これじゃ、握手したら相手がいやがるだろうな、と思う。大掃除、がむしゃらにやるのはカラダによくないらしいということが判明した。
 
 九時三十分、事務所へ。O社埼玉支店、O社キャンペーン企画、L印刷チラシなど。午後、ぼくのミスが発覚。以降二時間、機嫌がわるくなる。お茶を淹れたりして気を紛らす。
 
 夕方より、東小金井にある義父母の家へ。およばれ。鴨鍋、タラバガニ、焼き牡蠣という豪華メニュー。全部お歳暮でいただいたものらしい。定年間際のサラリーマンの家庭の年末とは、こんなに豊かなものなのか。ぼくの実家は自営の運送業、従業員もおらず一番下の下請けだったので、お歳暮なんてもらったことがなかった。いまのぼくも、広告だとか企画制作だとかいうシャラくさい業界にはいるものの、最底辺で虫けらのように蠢き生かされている存在だから、お歳暮なんてもらうのはまれなこと、こっちがあげる立場だ。ちょっとうらやましかった。『現代用語の基礎知識』をもらった。これもいただきものだそうだ。ほか、うどんの乾麺、つゆなどもいただく。
 
 二十二時すこし前に、義父母の家を出る。二十二時すぎ、西荻窪着。こちらのほうが暖かいと感じた。夜空は雲っている。深い紺色をした夜空は、うっすらとしたまだらな雲に覆われているみたいで、月が雲の切れ目からチラリチラリと顔をのぞかせているのが、コップに水をいれて万年筆のペン先を洗っているときみたいに見えた。インク吸入器を押し下げると、夜空の雲みたいに黒いインクが流れ出す。月のように輝くペン先は、インクの雲にたちまち覆われ、姿を隠してしまう。もう一度吸入器に圧を加えると、コップのなかに風がおきて、インクが、雲がかたちを変えながら流れていく。ペン先が、月が隠れる。この繰り返しのような、そんな夜空のもとを、『現代用語の基礎知識』やうどんの乾麺がはいった紙袋を提げ、カミサンといっしょに歩いた。
 
『SMAP×SMAP』を見る。めあては坂本龍一とのライブ。デヴィッド・シルヴィアンとのコラボレーションの名曲『禁じられた色彩』をSMAPが歌った。むずかしすぎるのだろうか、みんな歌いはじめのタイミングに苦労しているみたいだった。メロディをとれない人も何人か。やはりこの曲はデヴィッドでないとダメだと痛感した。
 
 川端康成『めずらしい人』。おそらく二十枚くらいの超短編なのだが、それでもしっかり物語になっているところがすばらしい。短編の場合、日常のワンシーンを切り抜いて、独特な視点から独特な文体でそれをつづってハイ、オシマイというのが定石だと思うのだが、川端は、限られた誌面のなかで登場人物の説明、会話、そして物語の発端と結末まで、小説に必要な要素をぜんぶ詰め込んでしまっている。それで重苦しさ、無理やりさを感じさせないというのは、職人技といってもいい。ちなみに、テーマは生、忘却、虚構……そんなところみたいだ。主題のぼかしかた、ケムの巻きかたも秀逸。
 武田泰淳『目まいのする散歩』。この作品には、見ることと考えることの境界線が、ない。すごいことだと思う。
 
 
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12月22日(日)
「磨きつづける/餃子で鍋を/奇蹟のような文体」 
 十時三十分起床。連休の中日。ゆっくり休みたいところだが、大掃除をすることに。すこしずつ、いまのうちから手をつけないと年内に掃除が終わらず家財道具とゴミの混沌の中で歳を越すハメになってしまう。
 
 午後よりひたすら風呂の掃除。壁に張り付いたタイルの目地にこびりつくカビを落とすのが大変だ。スチームクリーナーを使えばきれいになるのだが、それでは時間がかかるし、それ以前に本体が重くて長時間抱えていられない。工夫もクソもないが、タワシにクレンザーをつけて、ただひたすらにゴシゴシゴシゴシとこすることにする。これが意外にはやく、効果も高い。が、その代償も大きかった。手の皮膚がボロボロになってしまうのだ。洗剤の泡で服も汚れる。前者はゴム手袋を使えば解決できたのだが、どういうわけか作業中はこの発想が出てこない。わりきって、黙々とゴシゴシやっていたのだが、今思いかえすとアホだ。服が泡だらけになる、という問題も、意外に深刻。最後の一時間くらいは、割り切って全裸で作業した。そのまま、きれいになった風呂を使ってしまおうという考えだ。掃除が終わって、風呂に入って、出てきたのが十八時三十分。午後の時間、すべてを風呂に費やした。
 
 夕食は、あるメールマガジンでみつけた「餃子鍋」を食べる。餃子の鍋だ。具は冷蔵庫の残り野菜が中心。これを昆布だしと粉末だしでつくったスープのなかでグツグツと煮て、いいころ合いのところで、ポン酢で食べる。徹底的に刻んだ万能ネギが薬味だ。昆布だし、野菜のうま味、ポン酢が絶妙なバランスで、ゆで餃子にとって最高のタレになる。最後の雑炊のうまさは、わが家の鍋料理でも一、二を争うほど。癖になりそうだ。
 
 尾辻克彦『父が消えた』読了。ラストシーン。亡父を葬るため、都営の墓地の下見に訪れた主人公たちは、そこに隣接した市営墓地もついでに覗いてみる。主人公は、都営墓地は平等主義のものであるのに対して、市営墓地は資本主義のものだ、だからそこは「マンション」なのだと感じる。陽が沈み、幽霊でも出てきそうな不気味な雰囲気がこわくなり、非現実的な感覚にとらわれた彼らは慌ててその場を離れようとするのだが、このシーンの描写がすごい。オノマトペの乱用、おなじ言葉の連発という、悪文の見本のようなことを平然とやってのけるのだが、それが計算され尽くしているために、逆に名文になってしまっているという奇蹟のような文章。例によって引用。
 
 真暗である。誰も知らない暗闇である。まるで幽霊の溜り場である。見知らぬ幽霊がもうもうとした闇の中に、我が物顔に蠢いている。そんな気配が身体のまわりに張りついてきて、私たちはまるで錆びついたロボットの足のように、一歩一歩が固くなった。暗闇が緊張している。あちこちの暗闇が無数の糸で引張られている。その無数に伸びる糸が、どこか別の、見えないところにつながっている。その見えない別のところから黒い糸がギリギリと引張られて、暗闇がドキン、ドキンと呼吸している。その呼吸がひと固まりになって盛り上がってくる。真っ黒な固まりである。それが突然バサリと舞い上がった。私たちは突然棒になった。舞い上がったのは黒くて分厚い新聞紙のようなものだった。それがバサバサと、まだ出来かけの模型飛行機のように二度ほど低空を舞ってから、重たい体をどこか遠くへ運んで行った。たぶん黒い鳥だったのだろう。それが物陰にうずくまって、真っ黒になって呼吸をしていた。私たちは棒のまま前に進んだ。やはり資本主義には幽霊がでる。錘をぶら下げた幽霊である。錘の先が錨のようになって、この世の不動産にしっかりと食い込んでいる。そうなるともうこの世から出ようにも出られなくなるのは、理屈からいっても当然だろう。私たちはロボットの錆びついた足も忘れて、ぐいぐいと、錆をそぎ落としながら前に歩き、最後はもう逃げ足で私営霊園《マンション》を出た。
 外は明るかった。ふつうの夜である。ゆったりとした坂道を、ときどき自動車のライトが通り過ぎる。とりあえずふつうの世の中のようである。
 十数年前に読んだとき、ぼくはこのラストの、最後の一行に傍線を引いていた。ニヤリとしてしまった。
 
 寝る前に、芥川『鼻』をすこし。
 
 
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12月21日(土)
「常緑樹と落葉樹/手帳と手帖」
 
 八時起床。曇り。ひさびさの休日出勤だ。九時、事務所へ。手帖の整理とスケジュールの確認をしてから外出。
 
 十時、代官山着。雨が降りはじめていた。予報では雪になるらしいが、それほどの冷え込みは感じない。空の色が違う。
 J社にて新規物件の打ち合わせ。待たされているあいだ、空模様はどうかなと思い窓の外に目をやると、落葉して毛細血管のモデルみたいになっている木の枝が見えた。枝だけになったハダカンボの枝は、風に打たれても大きく揺れたりしなったりはしない。葉がないぶんだけ、風の力を受けにくいのだろう。でも、よくみると風の強弱にあわせて、細かな枝が小刻みに震えていた。身ぐるみ剥がされて裸一貫にさせられた木が寒くてブルブルしている、そんな印象だ。視線を飼える。常緑樹は落葉樹とはくらべものにならないくらい、風に煽られて激しく揺れている。騒々しく葉音をたてているみたいだが、窓とコンクリートの壁をへだてたこの部屋に、その音は残念ながら伝わらない。
 
 帰りがけに、渋谷東急の伊東屋へ。手帖コーナー、だいぶおちついているみたい。新宿アドホックにも寄ってみる。定期入れがほしいのだが、安くていいものが見つからず。結局買ったのは、ミニ六穴のシステム手帖。リフィルとほぼおなじサイズのバインダになっている、コンパクトなタイプ。これに名刺、地下鉄のプリペイドカード、Suica、地下鉄路線図、それからとっさのときのメモ用のリフィルをはさんでおくことにする。定期入れよりは大きいが、メモ魔のぼくとしては、この構成は理想的。なかなかいい感じだ。問題は、メインの手帖とどう使い分けるか。おそらく、メインの手帖はスケジュール管理や重要なデータの保存と持ち歩きに、そして定期入れ兼用のほうは、街でみかけたものやとっさのアイデアなどをとりあえずメモするメモ帖として使うことになると思う。
 余談だが、綴じ手帳は「手帳」である。一方、システム手帳という表記は、ぼくは使わない。この場合は「手帖」とする。「帖」には布=シート状になっているものに書きとめる、という意味があるからだ。
 
 西荻窪・桂花飯店でかた焼きそば。店中に中国の切手がかざってあるのに気づいた。そういえば、ここのオヤジはオタクなんだった。切手オタク。
 
 十三時三十分、帰社。O社埼玉支店、今日打ち合わせした新規物件など。十八時、とりあえず店じまい。スーパーに寄ってから帰宅。
 
 カミサンがいないので、テレビ朝日でやってたアニメベスト100とかいう番組をチラリチラリと見ながら、豚バラ肉のカレーを作る。二十一時、夕食。カレーのできは大満足。一合炊いた米、ひとりで食いつくしてしまう。おまけにビール二缶。太りそう。
 
 尾辻克彦『父が消えた』。美文でない名文。ポップ調の文体だけでなく、さりげない程度だが巧みに伏線を張って作品世界を深くしているところにも注目すべきと思った。
 
 十九日に文庫版を買ったのを気に、石川賢の『虚無戦記』をぶっとおしで読んでみた。第二部はあるのだろうか。読みたい。
 
 
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12月20日(金)
「山岡が前置きなしでいきなり料理を出したら、みなさんはどうしますか?/ポケットでグー/FUCKとヒジキ/真似できない文体」

 
 八時起床。テレビのスイッチをいれる。拉致被害者の曽我さんたちが北朝鮮のバッジをはずしたというので、どの局も大騒ぎ。徹底取材、詳細レポート合戦が繰り広げられているみたいだが、フジの『特ダネ』だけは、小倉の全然ちがうスポーツかなにかの話題をとりあげたトークからのスロースタート。さいしょはじんわり、そろりとはじめたほうが、視聴者もすんなりと番組に入りやすいと思うのだが、どうだろう。やっぱりセンセーショナルな事件をいきなりガツンと出したほうがいいのかな。たしかに週刊誌の記事の書き方は「転起承結」のながれになっているのがほとんどだし、この定石はワイドショーにもあてはまるのだとおもうけど、しかしこれって、たとえば『ウルトラマン』でいえば、怪獣が出てくるまえのドラマとか、主人公がウルトラマンに変身するまでとか、怪獣との格闘とかをいきなりすっ飛ばしてスペシウム光戦で怪獣をぶっ殺しちゃうようなものではないのか。『美味しんぼ』でいえば、山岡が食べ物に関する妙なトラブルに巻きこまれるまえにいきなり究極のメニューをバーンと出して、さあ食えといっているようなものではないのか。だからぼくは、『特ダネ』のオープニングがけっこう好きだ。
 
 九時、事務所へ。通勤途中、コートのポケットにつっこんだ手がぎゅっと握りこぶしをつくっていることに気づき、あわてて力をゆるめることが多い。寒い、というだけで、ニンゲンはこんなに緊張し、力んでしまうものなのか。それとも、こうなるのはぼくだけか。手をグーからパーに変え、ポケットから外に出して、ふつうにすんなり歩ければ、通勤風景や駅に向かう人たちを、もうすこし緻密に、そしておもしろく観察できるかもしれないと思う。グーとは精神的な余裕がないものなのだ。だから、ぼくはいつも、なるべく身体にチカラがはいらないようにして歩いている。それだけのことなのだが、じつは結構むずかしい。
 日中は、O社埼玉支店の件、L社A4チラシの件、Y社ウェブサイトの件などをちまちまと。
 
 それいゆで昼食。カレーセット。ウェイトレスが新人なのだろうか、はじめて見る顔。茶髪に紺のニット帽、カットソーの重ね着とローライズのジーンズ。カットソーの胸に「FUCK」とある。と書くと乱暴そうな感じだが、店内での足取りは軽く、表情はミカンとレモンを掛け合わせたようで、やさしさと爽やかさの両方を感じる。ちょっと高めの声でハキハキと応対するようすを見て、ああこの子の転職はサービス業なのだな、と思った。
 カレーをほおばっていると、モコモコが店のなかに入ってきた。なにかと思ったら、ダウンジャケットとセーターで着ぶくれした、顔面毛むくじゃらヒゲだらけ、おまけに髪の毛はゴワゴワの外人だった。熊かと思った。きっと胸板にはヒジキみたいな胸毛がバリバリと生えているのだろうな、とも思った。
 
 夕方、空き時間を利用して髪を切る。Rossoの原田さんに「髪の毛がいうこときかねーよ」と現状を説明したら、ツムジのせいだよ、だとしたらロン毛計画はむずかしいかも、といわれた。でも今の髪形は気に入っているので、ブラシやドライヤーに従順になるよう、髪の毛が多そうな部分を軽くし、形をととのえてもらった。満足。
 
 十九時、事務所に戻る。二十時、退社。空には冬の朧月。満月ちょっと過ぎ、というところか。あまり寒くないのは月明かりのせいだろうか、と思った。わからん。月の光の暖かさは、感じにくいものだ。
 
『戦後短編小説再発見5』より、『男と九官鳥』読了。生老病死をシニカルに描いている。おなじ設定で、筒井康隆が書いたらどうなるかな。
 帰宅後、無性に尾辻克彦が読みたくなってしまい本棚から『父が消えた』をひっぱり出す。読むのは二度目だ。一度目は、大学生のとき。表題作を半分ほど読んだが、今読んでもこの文体は新鮮。追従者があまりいなかった、ということかな。まあ、尾辻/赤瀬川の文体は、真似しようと思ってもできるものじゃないからなあ。
 
 
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12月19日(木)
「二時間刻み/税理士とデザイナー/虚無戦記」

 
 三時、厠で目が覚める。五時、花子にご飯。七時、花子に胸のうえにドスンと乗られ目が覚める。そのままねむれず。二時間刻みの睡眠は、あまり寝た気がしない。 
 
 九時、事務所へ。ひさびさに机にぞうきんをかける。O社埼玉支店のチラシなど。年明け以降、何度も発行される予定なのでバタバタしそうだ。
 
 十一時、税理士N氏が来る。年末調整の件。温厚でていねいなかただ。それから、黒目が大きい。だから素直そうにみえる。
 
 十三時、デザイナーのI氏が来る。今年十一月に浜松から上京フリーランスになったという、チャレンジャー精神のかたまりのようなかた。外見はごくふつうの、ちょっと学生っぽい雰囲気をのこしたかたなのだが、じつは繊細と見た。モノ作りへのこだわりが職人っぽいような感じも。
 
 十七時、カイロプラクティック。本屋にたち寄り、おそらく今日発売の石川賢『虚無戦記 5』文庫版を購入。豪華版でもっているのだが、文庫判に『スカルキラー邪気王』が組み込まれるという話を聞いたので、重複覚悟で買ったのだ。『虚無戦記』は石川賢のライフワーク。仏(のような人類)と、すべてを無に帰そうとする存在・虚無(神とも呼ばれる)との闘いが描かれている。『新羅生門』『虚無戦史MIROKU』『5000光年の虎』『邪気王爆裂』といった別個の作品が、虚無との闘いというひとつのテーマで結合され、加筆・訂正が行われることで、『虚無戦記』はつくられている。今回挿入された『スカルキラー邪気王』は、自分で自分を成長させることができる「邪気王」と名付けられた巨大ロボットとムー大陸の生き残りとの闘いの物語。と書くとマジンガーZやゲッターロボの延長のように思えるが、これがじつは似ても似つかぬような設定。邪気王はまるでギーガーがデザインしたエイリアンのような姿で、とても正義の味方とは思えない。というのに、じつは邪気王、主人公が飼っていた犬(かなり馬鹿)の魂が内部に組み込まれているらしく、そのせいなのか、やることはむちゃくちゃで凶暴このうえないのだが、主人公にだけはとても従順。グロな外見に似合わず、忠誠心の塊のようなヤツなのだ。夜に首輪をつけ散歩に出かけ、路上でちゃんとお座りするシーンがあるのだが、ナンセンスの極みだ。これぞキャラづくりの奥義。そんなカワイイ一面もあるがやはりコイツは獰猛で、こいつは闘いながらバリバリとほかの機械や敵の兵器を喰ってしまう。ラストでは、邪気王は地下に潜み、東京中を喰いつくして超巨大ロボになってしまう。最後は犬の本性まるだしで、ガオッと吠えて、おわり。『虚無戦記』はエンターテイメント作品だが、構想の大きさ、ストーリーのメリハリとテンポのよさ、奇想天外な展開、そして生き生きとした、キャラがしっかり動いている画(まあ、元作品の描かれた時期が違うのでタッチが変ってしまうのだが…)、などなど、他のマンガでは味わえない魅力がたくさんつまっている。マンガは飽きるとすぐに処分するのだが、石川作品はかなりの割合で手元にのこっている。ちなみに「ゲッターロボ」シリーズはぼくの愛読マンガだったりする。
 
 島比呂志『奇妙な国』。逆説的にテーマを語る手法。
 遠藤周作『男と九官鳥』。病院を舞台に、ゆるく、やさしい文体で生の根本である「健康」について書こうとしているのかな。遠藤周作、(高校の教科書を除くと)はじめて読むのだが、なかなかおもしろいと思う。ゆっくりだがカメラワークは的確な映画、そんな感じだ。描写が凝っているわけでもないのに、視覚的なのは、文章に遠近感があるからだろうな。
 
 
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12月18日(水)
「女流が気になる/通りすがりのサンタクロース/奇妙な国」

 
 八時起床。薄曇りの天気、窓のそとに目を向けなくてもわが家の鳥たちにはちゃんとわかるらしい。いや機嫌が悪いのは昨日より寒いからか。二羽ともじっとしていて動かない。 
 
 九時、事務所へ。今日も平穏、ほとんど作業がない。村田喜代子『名文を書かない文章教室』を読んで修業。しかし、この本を読んで内容を脳みそにすり込ませてこの本にあるとおりに感性と観察力を磨いて、そんなお勉強をつづけた人が書いた文章は、絶対に名文になってしまうと思った。名文なるものの基準がぼくと村田氏ではことなる、ということか。
 
 十一時、吉祥寺のパルコブックセンターへ。急に女流作家の文学が気になったので、金井美恵子『彼女(たち)について知っている二、三の事柄』『愛の生活|森のメリュジーヌ』、読んでいなかった高橋源一郎『文学なんかこわくない』、村田喜代子の作品も収録されている講談社文芸文庫編『戦後短編小説再発見5 生と死の光景』、それから今読んでいる『千年の愉楽』とおなじ作品世界の物語らしい、中上健次『奇蹟』。購入後、「まめ蔵」というカレー店でポークカレー。よく雑誌で紹介される名店なのだが、平日だというのに超満員。つぎからつぎへと客が来る。くるのはみんな女性だ。女の方が人生を満喫するのはうまい。だから食事にもこだわる。すこしでもおいしいものを、楽しく食べようとする。情報誌が売れるのは、そんな女性の要求にしっかり応えることができているからだろうな、などと考えながらカレーをほおばった。この店に来るのは一年ぶりぐらいだが、自分のカレー舌がぜいたくになったのかどうかはわからんが、以前ほど味に感動できなくなってしまった。ほんとうにこの店の味が落ちたのかもしれない。ぼくの曖昧な記憶では断定できないが。
 
 夕方、ふたたび外出。新宿紀伊国屋書店、アドホック、マイシティの岩下書店(だったかな?)などをまわるが、なにも買わず。女性のサンタをみかける。店員さんが赤い衣装をきているのかとおもったら、そうではなかった。客だった。ふつうの女の子が、明るい赤色のショート丈コートに赤いスカート、そして純白のマフラーをしていたのでサンタにみえただけだったのだ。サンタクロースは、むずかしそうな顔をしながらぼくのそばを通りすぎた。
 
 十九時三十分、帰宅。夕食前に、ウイスキーを呑みながら本を読む。書斎で鳥たちを籠から出してやる。うりゃのヤツ、グラスが気になるらしく、何度もデスクのうえに来てはグラスのまわりにうっすらとついた水滴をつついてみたり、フチのところに留まってなかをのぞいてみたり。きゅーは肩のうえでじっとしていた。
 
 二十二時三十分より『サイコドクター』最終回。思ったよりニンゲン臭さの強い、ドラマらしい終わりかた。これまでのイメージと違うかな、などとも思ったが、よくよく考えるに精神科医というテーマ自体がニンゲンのドロドロした部分に踏み込むことで成り立つものなのだから、最終回はやはりこうなってしまうのは必然、むしろこうあるべきだった、これでいいのだと思った。
 
『戦後短編小説再発見5』より、正宗白鳥『今年の秋』。これは武田泰淳の『目まいのする散歩』に匹敵するリアリズムの私小説だ。つづいて島比呂志『奇妙な国』。日本のどこかにある、住民全員が死に、滅亡するためだけに存在するふしぎな小国で暮らす人々についての物語。どうやらハンセン病療養棟の話らしいが、まだわからない。奇抜な構成力と虚構世界の構築力。みなが退屈な時間をもてあますなか、田代という男だけが(昼間におこった囲碁がエンドレスな展開になってしまったのが直接の原因なのだが、ほかにも理由はあるらしい)一人呆然とし、薮蚊に腹をさされまくってしまうシーンがある。ここの描写がおもしろかったので引用。
 
 やがて、窓際を赤々と染めていた夕陽も沈み、寺院や教会の金が鳴り渡るころには、薄墨色の夕闇が庭木々の間にたむろして、大きな薮蚊を飛び立たせた。青木は窓から侵入してくる蚊の行方を見守っていた。すると一匹の蚊は、高い羽音をうならせ、田代の太った脇腹へ飛んで行った。
「あっ!」
 彼は思わず息を呑んで、田代の肥満した腹部を凝視した。そこには、すでに蚊の先客たちが無数にとまって、吸血に飽満した赤い腹をぶら下げていたのだ。
 田代は人間であることをやめている。
 とっさに、青木はそう思った。
 退屈を完全に失った人間はもう人間ではない。退屈とは自己を意識していること、つまり孤独な自分の姿を感じていることだからだ。自分というものを完全に対象の中に没入し、自分を対象と同化させた状態というものは、もう神そのものではないか。だからこそ、田代は、おびただしい蚊の襲撃をさえ感知しないのだ。
 
 コミカルだが、生きることに疲れてしまった人間を的確に書き表しているよなあ。スゲエ。
 
 
 
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12月17日(火)
「修業」

 
 花子に、胸のうえにドスンと乗られた。払いのけるようにしておき上がり、時計を見ると、まだ四時四十五分。花子のごはんを要求し始める時間が、また早め早めにずれこみだしているようだ。無視したら延々髪の毛を舐められたり胸やら腹やらを前脚でモミモミされたり、ひどいときには噛みつかれたりするのはわかっているので、しぶしぶとではあるが缶詰めを開けた。
 
 八時起床。昨日よりはやや寒いか。だが、十二月にはふさわしくない陽気だ。
 
 九時、事務所へ。年末の山場はすでにこえているので、暇な状態がつづいている。年明けから急に忙しくなるはずなので、今のうちに休んでおこうとも思うが、ワーカーホリックの気があるのか、はたまたたんなる貧乏性なのかはよくわからないが、ついつい事務所に出てきてしまう。今日のような手持ちぶさたな日は、お勉強に徹することにしている。ただひたすらに文章修業。十九時、帰宅。
 
 中上『千年の愉楽』。ヤタガラスや烏天狗といった架空の存在を、作品世界にきわめて自然な形で組みこんでいる。作意はあるのだろうが、みえてこない。理想的だと思った。
 安吾『母の上京』。四十歳の闇屋の男と、七十歳の母の久しぶりの再開。経年による親子の関係の変化を、荒いが力のある文体で展開している、と思ったらお笑いオチ。締め方はブコウスキーにもつうじるものがあるな、と思った。親子関係ついて、おもしろい記述があったので引用。ちと長いが。
 
 子供の頃は怖しい母であったし、今も尚、怖れの外には母を思いだすことのない夏川ではあったが、それは彼の心に棲む母のことだ。現実の母は、叱る声も、怒る眼も在る代りには、だますこともでき、言いくるめることもできる。ひどく云えば、悪事の加担を勧めることもできるほど、子のために愚直な動物的な女であった。
 何事によらず、概ね人の怖れることは、ある極めて動物的な一瞬時なのである。死の如きものでも、そうである。そして夏川が母の上京に就て怖れることも、実は単に一瞬時で、怒る眼も、叱る声も、長く続いて変らぬという性質のものではない。だますことも、言いくるめることもでき、会わない前よりも却って事態を好転させる見込みすら有り得るのである。
 心の中に住む母はそうはいかない。苦しみにつけ、悲しみにつけ、自らが己を責める切なさの底で見る母は、だますことごまかすこともできない母だ。母はそれだけでいいではないか。夜汽車に喘いで辿りついた白髪頭の腰の曲がった老婆の姿をなんで見なければならないのか。その一徹な怒る心や叱る心をなんできかねばならぬのか。それを手もなく、だまして、言いくるめて、砂を噛むような不快な思いをなぜしなければならぬのか。
 だが、生来小心者の夏川は、別して母に就ては小心だった。母に会うその一瞬時が何よりも辛いように思われる。四十の彼の心の中に今なおなまなましくうずく苦痛は七ツの彼とすこしも違わぬ。胸にあふれ出る想念は子供の頃母に叱られたその怖さばかり、七ツの恐怖をどうすることもできないのである。
 
 
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12月16日(月)
「コートいらず/カブキの日/安吾に呑まれる」

 
 八時起床。明るくはっきりとした陽がさしているわけでもなく、雲ひとつない青空が広がっているわけでもないのだが、暖かで、過ごしやすい一日。厚着が不快になる。
 
 九時、事務所へ。O社埼玉支店の件で午前中は大わらわ。午後には落ち着いたが、それでも突発的な動きが、大地震がおきた後の余震みたいにつづいた。
 予定していたL印刷チラシの赤字もどしは明日に繰り越し。二十時、業務終了。猫の手書店に寄り、スピリッツと小林恭二『カブキの日』を購入。後者は三島賞受賞作で、以前図書館で借りて読んだもの。手元に置いておきたいと思った。
 
 安吾『オモチャ箱/狂人遺書』より、『母の上京』。荒々しい。美文名文ではないが、魅かれる。のみ込まれる。そんな作品。
 
 
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12月15日(日)
「天気とインコ/買わない理由/ネコブロ/安吾と想像力」

 
 十時起床。今日も天気が良いのか、と思い窓から空を見上げるが、まだらな雲が多く曖昧な感じで、たまたまその曖昧な雲と雲のつながりの切れ目から、陽の光がつよく差し込んでいるだけのようだった。それでもわが家のインコたちはご機嫌なようだ。こいつら、天気に関してはぜいたくを言わない。 
 
 朝食もといブランチを食べながらテレビ。『笑っていいとも増刊号』『ハロモニ』など。高橋愛のボケっぷりに感心する。
 
 午後より荻窪の西友へ。温度が下がるとたちまち体調が悪くなるきゅーのために話題のハロゲンヒーターを買おうかと思い、物色する。魅力は速暖性と光熱費の安さ。今わが家で愛用しているデロンギのオイルヒーターと比べたら、おそらく電気代は数分の一程度になるのではないか。しかし、留守中の使用は危険ということで、購入を断念する。筐体のデザインが好きになれないというの理由なのだが。オリンピックなどにも立ちより、猫のご飯などを買って帰宅。つづいて西荻のコープ、スーパーなど。晩ご飯の材料を買う。
 
 十五時すぎから、猫を風呂にいれる。激しく嫌がられた。花子、風呂と洗濯機の上にしっこをすることで、抵抗の意を表現した。
 
 夕食は餃子。ホットプレートで。
 
 安吾の『オモチャ箱/狂人遺書』より、『母の上京』を読みはじめる。安吾を読むといつもなのだが、想像力が暴走しはじめる。文体がそうさせるのか、作品構成がそうさせるのかはよくわからないが、読みながら、頭のなかでその作品世界をベースにした、もうひとつの世界が動きはじめるような感覚、とでもいおうか。なぜなんだろう。
 
 
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12月14日(土)
「作品と関係を築けない/丸ビル訪問記/中上健次とブコウスキー」

 
 十時三十分起床。脳みそが濁ってドロドロになったような気分だったが、顔を洗ったらすこしすっきりした。ねむりすぎると、いつもこうだ。
 
 午後より外出。東京駅のステーションギャラリーで開催されている有元利夫展を観る。フラスコ画に影響され、スタティックで空想的な作品を描き続けた画家だ。「浮遊」「音楽」「女性」「歓喜」などがキーワードなのだろうか。画のパターンはだいたい決まっていて、ふっくらとしたかたちではあるが、妙に無機質な女性がステージのうえでなにかをしており、そのまわりを花や謎の球体などが浮遊しているというのが作品の大半を占めている。タッチだけでなく、想像力までもが固定的で、自分のスタイルと化している。静止した歓喜、固まった浮遊感、というなにやらふしぎな感覚が観るものを包み込む。音楽をモチーフにしている作品が多いのだが、そのわりには作品からなにも音が聞こえてこない。音だけではない。動きもない。臭いもない。光も風も動かない。これは、他を廃絶し、自分だけの世界に埋没するような、一種の逃避行動なのではないか。第三者にとっての静寂の世界は、有元自身にとっては歓喜の音と光に満ち溢れた極楽浄土なのだろうか。ぼくにはこの作品世界に入り込んでゆく=作品といい関係を築くことができなかった。
 
 つづいて、話のネタにと丸ビルへ。コンランショップなどをのぞく。ぜんぜんおもしろくない、と思った。高級ブティックには用はないので、すぐにその場を去る。日本橋丸善にちょっとだけ立ち寄ってから帰宅する。途中、荻窪ルミネの地下食品売り場にあるナチュラルハウスで、無添加パン、ソーセージなど。
 
 遅くなったし疲れたので、ピザで夕食。
 
 中上健次『千年の愉楽』。アニミズムと「血」の関係とは? 
 ブコウスキー『ホット・ウォーター・ミュージック』読了。最近はやりの「J文学」や「ストリートノベル」への影響は大きいんだろうなあ。
 ん? 中上とブコウスキーの共通点? あるような、ないような…。
 
 
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12月13日(金)
「今日は軽めに」

 
 八時三十分起床。昨夜が遅かったせいか、ちょっと身体がしんどい。
 九時三十分、事務所へ。O社埼玉支店の請求書同封チラシなど。
 
 十時三十分、『月刊猫の手帖』の編集者が来る。わが家の猫と鳥についての取材。電話での事前取材があったので、今日は軽め。
 
 十九時、帰宅。タッカルビで夕食。『タモリ倶楽部』など。 
 
『ホット・ウォーター・ミュージック』をすこしだけ。 
 
 
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12月12日(木)
「目まいのする散歩」

 
 八時起床。寒いのだが日差しは妙にはっきりとした感じで、家のなかは明るく心地よい。インコのきゅー、体調のよしあしはどうやら天気にかなり左右されるらしく、今日は比較的快調そうで、朝から機嫌よくキョッキョッキョと鳴き続けていた。
 
 九時、事務所へ。日中は残務整理、雑務と読書。ここのところ暇な状態が続いているが、この三ヶ月くらいが異様に忙しかったので、こういう時間があってもまあいいのではないか、と思っている。十四時よりカイロプラクティック。かなり快方に向かっている、と先生に言われたが、なるほどたしかに毎年冬になると悩まされる腰痛はいまのところ起きていないし、肩こりも緩和されたような気がするが、あくまで言われてみないと実感できない、という程度だ。まあ、こういうものは一朝一夕に治癒するようなものではない。気長さ、のんびりさが必要なのだろう。
 帰りがけに、吉祥寺の書店で武田泰淳『目まいのする散歩』『富士』を購入。はじめてカイロプラクティックで治療を受けた際、首を矯正されたはずみではげしい目まいと吐き気を感じたことがあったのを思い出した。
 
 二十二時、O社埼玉支店の案件の赤字が戻る。〇時三十分まで、原稿整理と追加コピーの作業。一時、帰宅。空は晴れ渡っていて、オリオン座が地上のネオンに負けないくらいに明るく輝いていた。冬の星座はオリオン座しか知らないのが、ちょっと情けないと思った。
 
『目まいのする散歩』。奇跡のような文章。うーん、喩えようがないな。
 
 
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12月11日(水)
「今日はなにもない一日でした」
 
 八時に目覚ましをセットしたが、今日は暇なので三十分だけ意図的に寝坊することにする。
 
 九時三十分、事務所へ。印刷会社L社のビジネスソリューション物件のデザイン指示、確認など。夕方は時間が空いたので年賀状づくり。営業ツールとして重要。九時三十分、帰宅。
 
 ブコウスキー『ホット・ウォーター・ミュージック』。「だからなんなんだよ」というところでブッタギる、という手法。
 
 
 
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12月10日(火)
「アドトレインを視察する」

 
 八時起床。雪が降った明くる日は快晴になると信じこんでいたが、かならずそうなると決まっているわけではないらしい。空は薄どんよりとしていて覇気がなく、夜の冷たい空気に冷やされた残り雪がそうしているのか、ふだんよりはみょうに冷える。インコのきゅーは寒さに弱いので昨日は絶不調、今日もちょっと心配だったが、なんとかだいじょうぶなようだ。安心する。
 
 九時、事務所へ。事務処理や進行状況の整理などをしてから外出。夏からずっと手掛けていたゲートシティ大崎――もういいや、この件は偽名やめた――のアドトレインが、一日から山手線で運行されているのだがまだ一度も乗りあわせていない。今日は予定がほとんどなかったので、デジカメをもってその様子を見に行くことにした。十二時三十分、新宿駅から一駅ずつ、降りては後続の電車に乗り換えながら大崎に向かうが、なぜか一度もアドトレインには出くわさない。そのまま大崎駅に着いてしまった。しかたないので、駅のホームにアドトレインが到着するのをただひたすらに待つ。山手線は約一時間で一周する。ということは、三十分待てば、外回りか内回り、どちらかを走るアドトレインにかならず出くわすはずだ。で、三十分、正確には三十五分ほど待ってみたが、やはり姿を現さない。一度断念して駅から出て、開通記念キャンペーン中のゲートシティへ行ってみる。カフェ・ハイチでドライカレーとハイチコーヒー。一息ついてから、館内を視察し、ふたたび大崎駅へ戻る。また三十分待ってみると、おお、来ました来ました、大崎駅始発でアドトレインがホームにスタンバイしているではないか。なるほど。ぼくが待っていたあいだは、メンテナンスかなにかをしていて、運行していなかったわけだ。デジカメを引っ張り出し、外観、車内、とにかくかたっぱしから撮影する。ポスターの出来は、というと…じつは、あまり気に入っていない。まあ、クライアントの意向を酌みながらの作業だったから、狙いどおりのものがつくれるわけがないのだが…。これ以上は、語るまい。
 
 蒲田に寄り、ACT文房具屋でセーラーの限定万年筆を観賞してから帰社する。十九時三十分、業務終了。
 
 夕食はクリームスパ。
 
 中上健次『千年の愉楽』。はて、この作品、どう読み進めればよいのか。おもしろいのだが、どこに価値があるのかが掴みきれない。
 
 ブコウスキー『ホット・ウォーター・ミュージック』。とくに感想はなし。
 
 
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12月9日(月)
「雪の効用/モチはモチ屋」

 
 八時起床。家のなかがふしぎな冷えかたをしている。寒さが床を這って、壁や窓だけでなく、家具という家具、物という物、すべてをキンと冷やしたような、そんな寒さだ。冷蔵庫のなかのような気分につつまれながらカーテンを開け、窓のそとに目をやる。ありゃま雪だ。ふしぎな冷えの原因は、どうやらコイツらしい。窓についた結露をぬぐい取り、しばし降りしきる雪を眺めた。花子もめずらしそうに、次々と舞い、しずかにみだれながら落ちていく雪を目で追っていた。雪の舞いは枯れ葉の舞いとおなじく予測不能だ。その、数えきれないほどの予測不能が空いっぱいに舞っているのが、花子にはおもしろくてしかたないらしい。ニンゲンだって、おなじだ。舞い散る雪をみるのはたのしい。
 
 ダウンジャケットを来て事務所へ。ぷらぷらと中途半端に枯れかけた黄葉をぶら下げていた木々に、雪がつもっていた。細くてきゃしゃな枝どうしが、すこしずつ雪をたくわえ、つもりかさなり、やがて枯れ葉の姿は雪にかき消されてしまう。雪の咲く木。雪の結晶をその昔は雪花といったそうだ。この雪花は、どうやら目に見えるものすべてのかたちを、まるく、やわらかくしてしまう作用があるらしい。雪の降る西荻窪は、いつもより親しみやすく感じた。雪が寒く冷たいのは、この優しさ、ここちよい風景の代償なのかもしれない。いや、それでは本末転倒か。寒いから、雪が降る。それがすべてだ。
 
 日中はO社埼玉支店など。片手間に、会社用の年賀状をつくる。羊の絵を描こうとしたが、ぼくのタッチでは、何度描いても悪魔になってしまうので断念。ことばだけのものにするが、それではすこしさみしいので、カミサンに絵を描いてもらった。モチはモチ屋。
 
 二十時、帰宅。昨日カレーをつくるために開栓したワインをチビリチビリと呑みながら、たのしみにしていたテレビ朝日のナスカの地上絵をテーマにした特番をみるが、どうやらテーマはナスカの神秘ではなく、古代人がつくったらしい気球を現代に再現することのようだ。まあ、そういう切り口もあるのだろうと思いつつみてみるが、どうもつまらん。結局、テレビなぞまったくみないで、床のうえに置いてあった『買ってはいけない2』を読んでしまう。半分くらいは同意できるが、残り半分はこじつけだなあ。テレビの伝説や超常現象をあつかった特番とおなじレベルなのかな、と思った。
 
 ブコウスキー『ホット・ウォーター・ミュージック』。『親父の死(二)』という短編が気に入った。
 
 
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12月8日(日)
「変な夢/ヨッシー注意報/スペアリブカレーをつくる」

 
 十時三十分起床。休日は睡眠中も気がゆるむのか、なかなか目が覚めない。学生時代と『宇宙戦艦ヤマト』と伊勢丹がまじったような印象の夢をみたが、ストーリーも細部もまったく思いだせない。だが、思い出せないからといって困るようなことはないので、気にしないことにする。
 
 午前中は『笑っていいとも増刊号』『ハローモーニング』など。最近、保田圭よりヨッシーのほうがみるに堪えない。保田はキレイになったが、ヨッシーは逆行しているのではないか。なにがいけないのだろう。しあわせ太りってヤツだろうか。なっちはあいかわらずだとおもった。
 
 午後二時よりスーパーへ。外はすっかり冬だ。うすいねずみ色の空をみあげたら、もう十二月、今年も残りわずかであることが急に重苦しく感じられたが、休日なので、そんな感覚はすぐに消えた。
 帰宅後、すぐに夕食の準備にとりかかる。玉葱をスライス。ニンジンも短冊状にスライス。生姜とニンニクをみじん切りにする。それから、セロリ。葉っぱの部分だけをみじん切りにする。フライパンに火をかけ、下味をつけたスペアリブを焦げ目がつく程度に焼く。取りだしたら、今度はその残り油にすこしだけサラダオイルを足して、玉葱、ニンジン、それから香味野菜を炒める。火を通したものは、すべて圧力鍋に放りこむ。家で埃をかぶっていたワインを開け、鍋にドボッとぶち込む。水を足したら、鍋をしっかり閉め、火をかけておよそ三十分。火をとめて、さらに三十分。水蒸気が出なくなったのを確かめてから、蓋を開け、カレールーを足し、じっくり煮込む。特製スペアリブカレーだ。あとは、食事まえにもう一度火を通すだけ。たのしみだ。
 カレーをつくりながら、ふと『美味しんぼ』のカレー対決の話をおもいだした。今の『究極対至高』対決のノリでカレー対決をリメイクしたら、きっとたんなる料理のラレツで終わってしまうのだろうなあ。プレゼン勝負になってしまった今の『究極対至高』に、価値はない。
 
 食事の準備のあとは、以前から進めている趣味の駄文。二時間程度で、原稿用紙にして五枚ほど。そのあとは読書して過ごす。
 中上健次『千年の愉楽』。信仰と性、そして「血」。
 大田垣晴子『元祖体験道』。一気に読めない。飽きやすい内容。
『群像』より、平野啓一郎『高瀬川』。つまらん。
 それから、最近日課になっている、金子光晴『どくろ杯』の書写。『どくろ杯』は、何度読んでもいい。光晴の曲がらない信念と脆弱な優柔不断さの入りまじった生きかた、そんな生きかただからこそ書けた奇蹟のような作品。
 
 夕方、『笑点』をみる。テツ&トモがでていた。老人にもしっかり受けている。大喜利、芸が媚びているとおもった。
 
 夕食は例のスペアリブカレー。ちょっとコクが足りないのはなぜだろう。まだまだだなあ。
 
 二十一時より、『行列のできる法律相談所』をみる。だんだん、内容が行き詰まってきた感じだが、しかし番組は全然トーンダウンしておらず、むしろ以前より輪をかけておもしろくなっているところがスゲエ。島田紳助は天才だ。
 
 ブコウスキー『ホット・ウォーター・ミュージック』。カッコいいなあ。日本人には逆立ちしたって書けない内容。真似しようとしている人たちは、すぐに自分の愚かさに気づくべきだ。
 
 
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12月7日(土)
「胸を噛まれる/長新太といわさきちひろ/安吾を二冊」

 
 イッテエ。突然の痛みに飛びおきる。胸噛むなよ花子。時計を確認すると、七時三十分をすぎていた。どうやら花子、明けがたから延々とぼくを起こしつづけていたようなののだが、ここのところ深夜残業や早朝出勤がつづき、身心ともにすっかりすり減り情けないほどにズタズタな状態だったぼくは、彼女の「起きてよ攻撃」が気づかぬほど、ふかく熟睡していたらしい。あわてて起きあがり、缶詰めを開ける。これで満足だろうと思いふたたび床にはいるが、一時間もするとまた花子は寝室にあらわれ、ぼくの胸のうえに乗る。こんどは眠りがあさいせいか、ぼくはすぐさま目を覚まし、しばらく花子のアタマをなぜたり顎のしたをグリグリと掻くようにさわってあげたりしてご機嫌をとった。適当なところで手をとめ、もう一度寝る。以降、ほぼ三十分きざみでこれとおなじことを三回もやってしまった。やられるたびに、眠りはあさくなる。もう限界。十一時に起床する。
 
 午後より外出。雨のなかのおでかけはちょいとしんどい。おまけに今日は、確認はしていないが感覚的には今年いちばんの冷えこみになっているような気がした。バスを待つあいだ、吐く息が白かったのに気づいた。息が白い、というのは、冬がやって来たことを実感するためのサインのひとつだとおもった。
 上井草にある「いわさきちひろ美術館」へ。カミサンが好きな絵本作家である長新太氏の原画展をみにいく。大胆で愛嬌のある自由なタッチとナンセンスな作風で絵本界に君臨する大御所らしい。ぼくも作品をみて、ああこの人かと思いだした。小学生のころ、長新太の描いた絵本は何冊か読んだなあ。ちょっと手に入れたくなってきた。
 いわさきちひろの作品は、あまり興味がないのでサラリと見ながす。テクニックは目をみはるものがあるが、残念ながらひねくれた性格のぼくには、彼女の作品世界やメッセージがどうしても受けいれられない。
 
 吉祥寺へ。東急にある、ベトナムの軽食が愉しめるカフェへ。カミサンはフォー、ぼくはベトナム風のお好み焼きを食べる。卵のおおい生地にエビ、モヤシ、ササミ、ミントなどが挟んであり、これをさらにレタスで包みニョクマムでできたタレをつけて食す。べナム産の野菜だったら、もっとうまいだろうにと思った。四つあったので、ひとつカミサンあげたが、カミサンはそのぶんのフォーを残しておいてくれなかった。怒る。
 
 つづいてドイツパンの専門店「リンツ」でパン、プレッツェルなどのはいったセットを購入。明日の朝食用だ。
 
 パルコへ。ワイズで先週カミサンが購入したパンツを引きとる。パルコブックセンター。坂口安吾『日本文化私観』『オモチャ箱/狂人遺書』、週刊金曜日編『買ってはいけない2』、大田垣晴子『元祖体験道』、『群像』1月号。
 
 夕食はチゲ鍋。
 
 きゅーの具合が悪そうなので、デロンギのオイルヒーターのかたわらに置いて、あたたくしておいてあげた。きゅーを心配しすぎているせいだろうか、うりゃのヤツめ、どうやら焼きもちをやいているようで、なにかと怒りっぽくなっている。話しかけてあげているのだが、やはりきゅーに接するときの態度と自分への態度がちがう、ということが本能的にわかるようで、差別されてしまうことがどうもおもしろくないらしいのだ。明日は遊んであげようと思う。
 
『ホット・ウォーター・ミュージック』。よくできた短編ばかりがつづく。スゲエ。
 
 
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12月6日(金)
「大忙し/またまた中上」

 
 八時三十分起床。ここのところ午前様がつづいているせいだろうか、八時に目が覚めない。しかし、どういうわけか六時くらいに花子に起こされるときは、すっとからだが起きあがる。習慣のなせる奇蹟。いや、動物への愛情のなせる技。
 
 九時三十分、事務所へ。新潟支店の件、とんでもない赤字。あわてて対応するが、午後二時までのあいだに状況が一変。翻弄されつづけた。
 
 二十二時四十五分、店じまい。コンビニでキンレイの鍋焼うどんを買って帰る。
 
 昨日で古井由吉の『忿翁』を読み終えたので、今日から中上健次『千年の愉楽』を読みはじめる。例によって、また「路地」が舞台。この作品では、どうやら伝承や伝説がたくみにからんでくるらしい。渡部直巳氏が「絶対に映像化できない作品」といっていたなあ。
 
 ブコウスキー『ホット・ウォーター・ミュージック』一遍だけ。風呂で読むには最適な重さの小説だ。
 
 
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12月5日(木)
「今日の事件簿」

 
●待つ事件
●ゲッターロボアーク事件
●LAMYの「サファリ」、質感がいまいち事件
●十二月でも「小春日和」っていうのかな事件
●西荻にムクドリ事件
●箱入り麦次郎事件
●カイロプラクティック首イタイタ事件
  
 
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12月4日(水)
「今日の事件簿」

 
●餃子食べたい事件
●イメージどおりのデザインね事件
●古井由吉『忿翁』読了事件
●プロフィットがいまいち不調事件
●変な仮眠事件
●知らないことばオンパレード事件
●午前さま事件
 
 
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12月3日(火)
「朝もハヨから/療養食/マランツ到着」

 
 五時起床。花子にごはんをあたえて蒲団にもどるが、ねむれず。そのままの状態で一時間。六時三十分、ふたたび起床。七時、事務所へ。昨日の大どんでん返しの原稿整理とコピーライティング。なんとか十時に目処が立つ。デザイナーに原稿を渡し、なんとか収束。あとはデザイン作業に要する時間の問題だ。
 
 引きつづき、O社埼玉支店のA4版DMの構成、ラフ起こし、コピー。夕方、猫たちのドライフードを引きとりに、西荻動物病院へ。麦次郎が結石をわずらったことがあるので、わが家の猫は療養食をたべているのだ。
 
 二十時、業務終了。家に帰ったら、すぐに宅配便業者が来る。おお、マランツ到着。さっそくセッティングしてみる。アンプによる音質の差は素人にはほとんど感じられないだろうなあ、なんて思いつつ、シルヴィアン&フリップの「damage」を再生してみると、音にはさほど敏感とはいえないぼくにも、DENONとの差がわかった。こちらのほうが、低音に膨らみがあるぶんだけ、音がまるく感じられる。迫力はマランツのほうが上だ。DENONの高音の伸びも捨てがたかったが、マランツの音も好きになれそうだ。
  
『ホット・ウォーター・ミュージック』。酒をのんで意識が飛び、八歳と十歳の女の子をクロゼットにつれこみ、パンティーを脱がせておしっこの臭いを嗅いだことを親からとがめられた銀行員の話。など。
  
 

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12月2日(月)
「思いだせない/大逆転/歳とらないと」

 
 七時三十分起床。いつもよりはやく事務所へ。朝から仕事がたてこんでおり、アタマのなかがすでに飽和状態に近くなっていただろうか、日記をつづる今になって思いかえすと、朝のぼくはみっともないくらいに視野がせまく、感受性がわるくなっていたようだ。事務所までの道すがら、なにをみたか、なにを感じたかが、まるで思いだせないのだ。
 
 日中は比較的ヒマだったので、事務処理や雑務などを中心に。夜、O社新潟支店の赤字が戻るから待機せよ、と連絡あり。そのまま待っていたら、二十三時になってしまった。おまけに、内容が全面変更。絶句。原稿整理とラフ起こしだけして、帰宅。
 
『忿翁』より『坂の子』。「坂道」のことを考えるだけで迷走する主人公のアタマのなか。こういう文章は、歳とらないと書けないかな。
 
 
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12月1日(日)
「行列と上野の森/マランツを買う」 

 
 九時十五分起床。雨。今日も休日だ。土日を二日連続で休めるなんて、奇蹟に近いが明日の朝はそのツケがまわってしまい、早出ということになっている。世の中そんなに甘くない、とはよくいったものだ。フン。
 
 午後より外出。上野へ。現代美術館で「ピカソ展」をみようと思ったが、雨だというのにとんでもない行列。天気がよく、おまけに毎週末、かならずしっかり休める身分であったなら、上野の森の黄葉を楽しみながら、行列がすこしずつ短くなるのを待つというのもアリだったが、そんな呑気なことはしてられない。どうせ入館したって、ごったがえした人の頭をかきわけかきわけ、つま先で立ちながらやっとの思いで絵画をみる、なんてことはしたくない。そんなの、観賞と呼べるか。アホ。というわけで、ピカソ展は断念。カミサンの作品が販売されているにもかかわらず、まだ一度も見に行ったことがない「東京都美術館ミュージアムショップ」を訪れることにする。クリスマス用の商品が並べられており、いつもとはどうやらちがった雰囲気と陳列になっているようなのだが、それでも梶原美穂のポストカードは、なぜか東山魁夷や藤田嗣治と並んで販売されていた。おそれおおい。
 上野駅まで、公園内を散策。カラスとヒヨドリが異様におおい。ほかの野鳥は、カラスの猛威に負け、どこかに退散したのだろうか、なんて思っていたら、オナガが飛んでいるのをみかけた。なるほど、あいつらもカラスの仲間だからな。負けるはずがない。
 ついでなので、アメ横に行ってみる。サカナや干物なんかの店が軒をつらねる通り沿いではなく、ガード下を歩いてみた。五坪とか三坪くらいのちいさなお店がワンサカ。化粧品のディスカウントや、本物か偽物か、ちょいとあやしい感じのブランドショップが多いことは以前から知っていたが、若者向けのシルバーアクセサリーの店が増えていたのには驚いた。輸入雑貨店を何軒かのぞいてみる。おお、万年筆があるじゃないか。ペリカンのスーベレーン#600が三万円。デパートより一万円以上安い。もちろん並行輸入品だから購入した場合には若干のリスクはあるのだろうが、それでもこの価格は魅力的だ。でもオレ、ここでは買わないだろうなぁ…。
 
 恵比寿へ。EBIS 303で開催中のプランタンのバーゲンへ。マフラーを購入。
 
 吉祥寺へ。三越の地下で腹ごしらえ。ラオックスでステレオスピーカー用のケーブルを購入。昨日Sylvian & Frippの『Damage』を再生してみたら、なぜか左チャンネルだけウーハーが鳴らなかったのだ。試しに左右の接続を入れ替えてみたら、今度は右チャンネルがおかしい。ヘッドホンでは、正常に音が出る。アンプに直結した場合も、CDプレーヤーに直結した場合も問題ない。ということは、スピーカーとアンプをつなぐケーブルに問題があるか――断線してた、とか――、そうでなければアンプのスピーカー出力端子あるいはそれにかかわる回路がいかれちまったかの、どちらかだ。
 
 パルコへ。カミサン、ワイズでパンツを購入。最近、カミサンは服ばっかり買っている。ちょっとズルイと思う。
 
 ロヂャーズで猫のご飯を買ってから帰宅。
 
 帰宅後、早速ケーブルをつないでみるが、案の定問題は解決せず。トレイ・ガンのスティック・ベースの音は右からしか聞こえてこない。あちゃー。こりゃ、アンプの故障だな。今使っているDENONのアンプは結婚前の年に購入したものだ。一人暮らしをはじめたとき、場所ふさぎになるのはわかっていながらも、やはりステレオの音質だけは妥協できず、どうしても安ッちいCDラジカセを購入する気になれず、実家からコンポーネントをバラバラに購入しつづけてめちゃくちゃな取り合わせになっているが音だけはいいステレオを持ってきていたのだ。それをそのまま今にいたるまでつかいつづけているのだが、アンプだけは八年まえに突如音が鳴らなくなり、しかたなく秋葉原で型落ちのDENONを一万六千円で購入した。修理するのは馬鹿馬鹿しい。どうしようかと思案しつつ、オンラインショッピングのホームページをみていたら、中学生のころにあこがれていたマランツのプリメインアンプのスタンダードモデルが、一万八千円で販売されているのをみつける。これを買わずに男といえるか。カミサンのヤツも今日は自分の好きなものを買ったんだ。オレも買ってやる。フン。というわけで、マランツMA4200Nとかいうアンプを購入。到着がたのしみだ。
 
『ホット・ウォーター・ミュージック』。チンコを怪我した作家の話。など。

 
 
 

 



《Profile》
五十畑 裕詞 Yushi Isohata
コピーライター。有限会社スタジオ・キャットキック代表取締役社長。妻は本サイトでおなじみのイラストレーター・梶原美穂。夏からつづいた忙殺状態がやっと途切れ、平穏な精神状態が保持されている。

励ましや非難のメールはisohata@catkick.comまで