「蹴猫的日常」編
文・五十畑 裕詞
二〇〇四年十月
 
-----
十月一日(金)
「新・二匹の恢復13」
 
 七時三十分起床。花子に起こされる毎日だったはずが、いつの間にか起こす立場と起こされる立場が入れ替わった。目が覚めるやいなやすぐに花子の姿を探し、手に触れてみる。ほとんどの場合ぐっすり寝ていて、撫でればフウンと高い声で合図し、ノソリと起き上がってくる。ゴハンを与えるが、最近は薬が混じっているせいか以前にもましてよく残すようになった。カツオブシをかけて薬の苦味――なのだろうか――をごまかしてやるが、上手にカツオブシだけを食べていたりすると少々腹立たしくなるが、すっかり落ち着き払っているのだから精神安定剤などもう不要なのだということを、花子は暗に伝えようとしているのかもしれない。とかく一日が花子との絡みではじまるのだけは以前と変わらない。
 
 九時、事務所へ。十月といえば衣替えであるが、この暑さで冬服を着させられるのでは、学生も閉口頓首はなはだしいだろう。しかし朝晩は時節通りの冷え込みだから、ときたまクォータースリーブやノースリーブの女性を見かけると異様にぎょっとするが、まだそんな夏服を着たい気持ちはわからないでもない。
 
 E社フリーペーパーなど。夕方、「らくだ治療院」で鍼とマッサージ。寝方がわるいのか単純に仕事のしすぎなのか、骨格にゆがみがでていたらしい。頭の筋肉も緊張していたのだろうか、脳天やその周辺、五、六ヶ所にも鍼を打たれた。頭に鍼とははじめての経験である。
 
 二十時、店じまい。カミサンと「五鉄」へ。七輪で焼き肉を喰らう。うっかり鍼を打ったことを忘れ、ビールをガバガバ飲んでしまって酔いが早くまわった。といっても理性が壊れるほどではない。無論胃腸も無事なままだ。
 
 夜は麦次郎をグチャグチャにもみしだいたりゴロンゴロン転がしたりしてストレスを発散させてやる。グフウと息を漏らしながら膝の上でゴロリと転がる。二、三分もいじっていると、飽きたのか満足したのか、すっと立ち上がっていつもの箱の中に入ってしまった。
 
 今日は本を読まず。新聞はいつもより熱心に読んじゃったなあ。


-----
十月二日(土)
「新・二匹の恢復14」
 
六時四十五分、花子にゴハンを催促された。起こされない日々がつづいている、と書いた矢先である。寝ぼけていてもこの仕打ちのひどさはやはり身に沁みる。ぼくが書いたことをことごとく否定しようという魂胆か、まったくひねくれた猫だと苦笑しながらのそりと起き上がり、小便を絞り出してから、いっそ手など洗わずにゴハンの準備をしてやろうかと少々意地悪な考えが頭をよぎったりしないでもなかったが、まあ小便後に手を洗わぬことに自分自身が耐えられないのできちんと洗い、洗った手で缶詰めを開け、いつもの皿に盛りつけた。今日の缶詰めもやはりいつもの通り不評で、ちょいと匂いを嗅いだだけですぐに皿から離れた花子の顔を見ていたら、いくらおなかがすいているといってもこの味ではワタクシ食べれません、とはっきりいわれてしまった気分になって、それじゃ仕方ないと、また例によってカツオブシをパラパラ振りかけたら、今度は態度をコロリと変えてむしゃむしゃ食べだした。しばらく蒲団の上から見守っていたが、眠いので二度寝した。次は起こされなかった。腹いっぱいになって眠くなったのだろう。
 
八時三十分起床。十時過ぎ、三菱電機のサービスマンが空気清浄機を修理しにやって来た。フロントパネルの交換。保証期間中なのでタダだったのはうれしいが、同じ部分の故障は彼が担当しただけでも二件あったということだから、うーんコレは設計の段階で欠陥があったなあと考えざるを得ない。これが三菱グループの企業体質? いや、自動車と電機は関係ないか。
 
午後より外出。吉祥寺で猫缶、事務所のカーテンなど購入。西荻に戻り、「グレース」でお茶をしてから帰宅。もう十月だからとジャケットを着込んだら最高気温は今日も三十度近かったらしく、暑くて敵わぬと結局脱いで手に持っていた。
 
ちょっと前までは何かと暴れたがっていた麦次郎が、また落ち着きを取り戻しはじめた。気づけば押し入れのなかに引きこもっている。引きこもると表現するとなにやらネガティブで自閉的な匂いがしてくるが、これはあくまで誰にも邪魔されず熟睡したいから以外に理由はなく、その証拠に外出から帰って来ると、今日のように、どこいってたの、おいらいままで寝ていたよ、目が覚めたからちょっとかまって、とでもいっているかのような表情で、ニンゲンの、主にカミサンの顔を見ながらナアナアナアナアと鳴きつづける。かまえば落ち着く。落ち着けば段ボール箱の中でまた寝る。麦次郎らしい、いつもの生活のリズムである。
 
夕食はカンタンにエビチリを作る。チリソースをつくっておいて、エビを炒めながら混ぜるだけ。お手軽だけれど、ぼくが作ると手際が悪いから時間がかかる。でも味は満足。
 
古井由吉『野川』。大学生時代の友人、内山を襲った狂気。日常にふっとまぎれこんだ狂気を描くのは、古井由吉の得意技。うまいなあ。
 

-----
十月三日(日)
「新・二匹の恢復15」
 
 ああ、とうとう「15」になってしまったか。花子と麦次郎、二匹のあいだに決定的な断裂ができてから、ようやく落ち着き払ったと判断できるまで二週間以上もかかってしまった計算になる。落ち着いたのはよいが、二匹ともお互いの存在を今の状態でどれほど意識しているか、いやそれ以前にちゃんと相手のことを覚えているのかがとても心配なのだが、まあこれも気長にならしてゆくしかない。もうじき折り返し地点だと思えば気も楽だ。あと半分走ればゴールなのだから。
 
 また朝っぱらからゴハンを催促された。時計を見る。六時四十五分、昨日とまったくおなじじゃないか。花子の腹時計の正確さに呆れながらゴハンを与える。歴代の亡くなったドウブツたちの写真を飾っているサイドボードにお供えしておいた猫缶を持ち出すためにリビングに来て、はじめて外は雨だと知った。まず音が耳に飛び込んだ。それから湿った空気がカーテン越しに感じられて、少し窓を開けてようやく雨を実感できた。雨だよ雨だよ、と何度も口にしながら花子にゴハンを与える。今朝の缶詰めはおいしいらしく、カツオブシは催促されなかった。おなじ家の中だというのに、どうして書斎では雨の気配が感じられなかったのだろう、花子と寝ている書斎も夕べは窓を開けたまま寝たから雨音くらいは聞こえてもいいはずだ、と訝りながら再度蒲団にもぐり込む。ひょっとしたら、花子とこうして毎晩一緒に眠ることに慣れすぎて、感覚が鈍っているのかもしれない。
 
 十時、ちゃんと起床。午後から外出。無性にビーフシチューが食べたくなったので作ることにしたのだ。西友、ルミネなどで食材をどっさり買い込む。
 
 夕方から調理に取りかかる。手際は最悪だから圧力鍋を使って煮込む時間を短縮しても、たっぷり二時間半もかかってしまった。しかしその分味はすばらしい。とろみはないが、コクがある。もったりしていない分だけ食も進む。
 
 食後、テレビでTOKIOのメンバーが牛に向かって「ミュイーイイイイイイイ」と奇声を発しているのを見て、どうもこれは動物にとって気持ちのいい音らしいということを知り、それではと麦次とぷっちゃんにさっそく「ミュイーイイイイイイイ」とやってみたら、ぷっちゃんはあいかわらずギョエギョエと騒いでいるばかりなのだが、麦次はそれまでダラリと倒れていたのに突然シャキンと目を輝かせ、ぼくに向かって突進してきてあぐらをかいた足の△にスポリと入り込んだ。グリグリしながら「ミュイーイイイイイイイ」をつづけてみる。おお、ゴロゴロと喉をならしているではないか。これはおもしろい。ちょこちょこやってみよう。 
 
 古井由吉『野川』。狂気のつづき。
 
 
-----
十月四日(月)
「新・二匹の恢復16」
 
 花子に起こされるより先に目が覚めた。外は暗いが部屋は西側なので陽のあたり具合で時間を判断するのは難しい。どうせまだ五時くらだろうと二度寝を決心しつつ身体を起こし時計を見ると、七時三十分に近かったので驚いてしまう。慌てて花子にゴハンを与える。土、日とつづけてぼくを起こしてくれたというのに、花子め今朝のサボり具合はどうだ。
 
 九時、事務所へ。事務処理、E社企画書など。十五時、五反田のL社にて打ちあわせ。担当のZさん、風邪を引いたらしくいつものキレがまったくない。
 
 二十一時、店じまい。がりかける前の中途半端にぱらつく雨滴に傘を差すべき化ささぬべきか迷いながら、結局は指すことにしてカミサンとタラタラ歩いて帰る。数日前からキンモクセイが香りを街中に漂わせ、かわいらしい山吹色の小さな花を数えきれぬほど開かせている。気づくのは大抵夜のことで、どこかの家庭の夕食のおいしい匂いにふっと混じって、ほんのり黄色みを帯びた香りがふっと鼻に飛び込んでくる。冬春夏と記憶の奥の方にしまい込んでいたあの香りの記憶は瞬時にひっぱり出され、ああキンモクセイだ匂いのもとはどこかいな、としばらくきょろきょろ辺りを見回すが、ご本尊を探すのにはある程度の時間が必ず必要になる。いちばん強く香る場所というのは、不思議なのだが必ず木のあるところから数メートルから十数メートル離れている。風の流れに乗った香りが、塀やら家の壁やら生け垣やらにぶつかってよどんでいるのだろうか。
 
 古井由吉『野川』。ボケを神経質に捉え、その兆候あるいは兆候のなさを注意深く、神経質に書き連ねている。
 幸田文「雛」読了。子供のためにというよりも、自分のために見栄を張って作った豪華な雛人形と、その豪華さをさりげなく批判する父・露伴。
 
 
-----
十月五日(火)
「新・二匹の恢復17」
 
 今朝は起こされた。花子め六時四十五分という、二度寝するには中途半端すぎる時間を狙ってきた。七時にふたたび床に入ったが、結局眠ることはできなかった。脳味噌はすこしずつ起きはじめてしまったようだ。だが身体がついてこれない。疲れているらしい。起き上がるのが苦痛である。だが起きた。八時。
 花子も麦次も、様子はとても安定している。安心して接することができるのがうれしい。花子と密室にいるのがばれているのか、麦次郎はちょっと妬きもちをやいているようにも見える。
 
 九時、事務所へ。大雨。雨の中、十時半に小石川のL社へ。E社の件、打ちあわせ。桜並木はほんのりと黄葉しはじめているが落葉するにはまだ早すぎる。雨に濡れた木肌が黒々と沈んで見える。
 十三時三十分、水道橋のE社で新規案件の打ちあわせ。十六時過ぎ、ようやく帰社。雨と荷物の多さに辟易しながら移動していたのだが、事務所に来たら疲れがどっと吹き出た。身体からもうもうと煙が立っているような気分。
 二十時三十分、店じまい。
 
 古井由吉『野川』。情事、だよなあ。でも狂気に支配されているんだな。
 中村真一郎「天使の生活」を読みはじめる。溺愛夫婦の悲劇。
 
 
-----
十月六日(水)
「新・二匹の恢復18」
 
 六時四十五分、今日は花子に起こされた。久々に晴れた陽射しがリビングを照らしているが、西側の書斎にこもりっきりの花子は朝陽をおがむことができない。
 麦次郎、日に日にわがままさが増していくようだ。態度がふてぶてしくなった分、顔つきも威圧的に見えてきた。花子は女王様からかよわい女の子に変わりつつある。二匹の関係が修復できても、以前とおなじキャラは維持できないかもしれない。
 
 九時、事務所へ。E社ホームページ、E社企画など。午後、突然愛用のPDA、クリエ PEG-NX73Vの電源が入らなくなる。サポートに電話すると、電源か回路の故障だという。購入したのが去年の十月だから、ちょうど保証が切れたタイミングである。出たなソニータイマーめ。修理に出すことにした。明日の午前中、日通が引き取りに来てくれる。
 仕事の進行管理や予定、To DoリストなどはすべてPDAで管理していたので、午後は仕事の生産性が極端に落ちてしまう。仕方がない。それに修理から帰って来てもつねに故障の恐怖と向かい合うのは嫌なもんだ。というわけで、代替機を思いきって購入することに。夕方、新宿のビックカメラでPEG-UX50を購入した。今日から、こちらをメインマシンにして73Vを予備機にしよう。

二十一時四十五分、店じまい。
 
帰宅後、花子の姿が妙にさみしそうに見えてしまう。麦次郎はラグマットをひっくり返して大ハッスルしていたようだ。こっちもさみしいんだろうなあ。
 
今日は全然読書できず。うんこしながら『田中小実昌エッセイコレクション2』を読んだだけ。
 
 
-----
十月七日(木)
「新・二匹の恢復19」
 
急に訪れた秋に戸惑いを感じているのかな、と思った。朝晩の肌寒い空気が人恋しさをいっそう強めさせているようで、夕べはめずらしく花子が蒲団にもぐり込んできたのでいっしょに丸まって寝た。蒲団に入れてくれ、とせがまれ、そのとおりにしてやるとしばらくは喉をならしながら満足そうに身体を丸めてじっとしている。そのままぼくは眠りに落ちてしまうから、どれくらい花子がそうしていたのかはわからない。だが気づくと明け方もまた入れてくれ、といわれ、夕べとおなじように蒲団をめくって花子を招き入れてやった。蒲団の中で屁をしたらかわいそうだから我慢しよう、そんなことを考えていたらふたたび眠りに落ちてしまった。

七時三十分起床。昨晩、カミサンが麦次と徹底的に遊んであげたせいか、今朝は拗ねた様子も見せず、ストレスを溜めこんだような表情もせず、ちんまりとまるまって陽だまりでゴロゴロ喉をならしたりゴハンをカリカリと食べたりしている。
 
八時三十分、事務所へ。昨日購入したUX50は好調である。朝イチでインストールした日本語変換プログラムが誤作動するというトラブルがあったが、最新バージョンに入れ替えたらすぐに解消した。キーボードも打ちやすいし、画面も見やすい。動作もキビキビしていて心地よい。問題は手書き文字認識の書き方が変わってしまったことだけだ。これは慣れるしかないだろう。
 
十六時、小石川のL社で打ちあわせ。十九時、帰社。二十時三十分、店じまい。ちょっと頭痛がしてきた。
 
 キンモクセイの香りを見つけながら、そして香りのあとに花を見つけながら帰る。
 
 今日も読書はできなかったなあ。うんこしながら、ってそれは昨日も書いたか。読んだのは同じ本です。
 
 
-----
十月八日(金)
「新・二匹の恢復20」
 
八時起床。といっても七時くらいからは花子の気配を感じながらうとうとと半分目を覚ましている。夜は熟睡しているようだが、明け方になると騒ぎだす。もっともゴハンちょーだいとせがまれるだけの話だから心配することもない。むしろ、明け方に花子のゴハンの準備をしているときに起きだしてこない麦次郎のほうが心配だ。ここ数日はぼくが缶詰めを開けるとオイラも食べますと言ってきた。まず麦次に食べさせてから、花子にゆっくり食べさせるというのが流れになっていたから、押し入れに閉じ籠もったきりでてこようとしない麦次郎からは、子供のころに仲のよかった友だちの態度が急変したときのような不安を少しだけ感じてしまうのだ。もっとも、夜になれば出てくる。甘えたいから姿を見せるか、見せないか。ひょっとすると麦次は駆け引きをしようとしているのかもしれない。だとすれば、たいした猫だ。ニンゲンの心を手玉に取っている。
身支度をしても、今朝は麦次めまったく姿を現さなかった。
 
 九時、事務所へ。E社PR誌など。夕方、一ヶ月ぶりにカイロプラクティック。身体がかなり錆びついていたようである。
 
 夜、カミサンの従妹で先日までダンナさんの仕事の関係でドイツにいた、そして今は奈良の田舎に住んでいるBちゃんが遊びに来る。義母も交えて「えんづ」で夕食。「どんぐり舎」で珈琲を飲んでから別れた。テレビや雑誌はあまり見ないタチらしく中央線文化や西荻窪の裏グルメにはあまり関心がないようだったが、それでも「えんづ」の料理のうまさと独創性には舌を巻いていた。
 
 明日は台風が関東を直撃するらしい。
 
 今日も読書している時間がなかったなあ。読まないと、書けなくなってしまいそうで怖い。
 
 
-----
十月九日(土)
「新・二匹の恢復21」
 
 五時、ふと目を開けると顔の真横にいる花子と目が合った。自分の目が覚めたのは尿意を覚えたからであるが、花子が目を覚ましていたのは空腹ゆえか、さみしいのか、それとも夜行性という猫の本能からか。ちょっと頭を撫でてから便所で長い小便をし、もどって来るとにゃあにゃあと大騒ぎをはじめてしまった。やはり目覚めの理由は空腹だったのか。それとも明け方にぼくが起き上がる、イコールゴハンタイムという方式が成り立っているのか。そのあたりはよくわからない。が、わからないままにゴハンを与えて二度寝した。外はまだ夕べからの雨が降りつづけている。雨音を聞きながら、いつの間にか眠っていた。花子のにゃあにゃあはもう聞こえてこない。
 
 九時三十分起床。久々の朝寝だが、台風は午後に直撃するらしいのであまりウカウカもしていられない。カミサンの知人が横浜の会場で開いている個展に顔を出す予定だったが、この空模様では会場にたどりつくことすら怪しい。それは断念し、夕食の準備の買い出しをしてから昨日から来ていた従妹と荻窪でランチ。ルミネの五階にあるイタリアンでピザマルゲリータ、田舎風ミートソース、カルボナーラ。
 雨足がどんどん強くなり、帰りはずぶぬれになってしまった。傘の柄をつたって水が指先を濡らす。風が吹き込んで顔も身体もびしょぬれだ。靴はまるで用をなさず、どこからなのか水がどんどん沁み込んでくる。雨を含んでコットンパンツがどんどん重たくなった。
 一戸建てやマンションの生け垣に植わったキンモクセイの小さな花びらが、雨に打たれてバラバラと地面に散り、道路の端ににわかにできた川のような水の流れに流され、坂の下のほうに溜まってゆくのをおもしろく眺めた。香りも流れてゆくのだろうか。
 
 帰宅後は昼寝をしてしまう。というより、気づいたら夢を見ていた。十分くらいは夢と現実の区別がつかない状態だったろうか。目の前に花子がいること、自分が書斎でごろ寝していたことが不思議でしかたないのだが、その一方でそれがあたりまえだ、なにしろ自分は昼寝していたのだからという理性も冷静に働くのだからさらに不思議だ。はっきり意識が戻るまでの時間を含め、お昼寝は一時間半。贅沢な気分と言えなくもない。
 
 台風、いよいよ本格的に近づいてきた。夕方は何度も外廊下に出ては、雨風の強さを確認してみた。風に煽られた雨が白いレースのように見える。レースと書くと美しい感じがするが、実際は濃いグレーの空にそれが喧しい雨音と善福寺川の流れるドブドブした音に混じりながら広がっているのだからキレイもクソもあったもんじゃない。台風は二十時ごろには東京を去ったようだ。静けさの戻った空のもと、善福寺川だけが相変わらず濁流のままだった。
 
 古井由吉『野川』。学生時代の友人の情事の記憶を辿り直す主人公。エロスの感覚は遠くなるが、狂気の感覚だけはまとわりついて離れない。それにたいする自分の意識が、年を追うに連れて微妙に変化するようだ。年を取るというのは、記憶を重ねるというだけではなく、記憶にかぶさるフィルターを取り替えつづけるということなのだろうか。
 
 
-----
十月十日(日)
「新・二匹の恢復22」
 
 台風の翌日は晴れる。荒れ狂った嵐が雨雲をすべて持ち去ってしまうからだ。子どものころはそう信じ込んでいたが、ここ数年台風襲来の翌日に空が晴れ渡ったという記憶がない。台風一過の鋭い朝陽にまぶしさを感じながら起きてみたいものだが、西側の部屋で寝ている限りはそれも叶わず、と思っていたが、叶うも何も翌日は晴れるという法則自体が成立しなくなっているのはさらに悲しいことだと思う。無論猫たちはそんなことはまるで気にせず、勝手に起きて一方的にゴハンを催促したり甘えてみたりを朝から繰り返している。
 台風のさなかは外廊下からその激しさを確認して規模の大きさ、荒れ狂いっぷりにパニック映画を観るようなおもしろさ、魅力のようなものを感じていたが、野良猫、地域猫といった生き方をする猫たちのことがやや心配になる。もちろん軒下や物陰に潜んで嵐が過ぎるのをじっと待っているのだろう。雨風もよけられないようでは野良も地域猫も勤まるまい。そんなことをカミサンに話したら、カミサンは猫はどうせうまくやっているから心配はいらない、それより外で暮らしている人たちのほうが心配だといった。たしかに、彼らは軒下に身をひそめるわけにはいかず、となれば猫よりも状況は過酷だろう。なによりも、わが家の猫たちの幸せっぷりを再確認するばかりだ。これで二匹の関係さえ修復できれば、とつくづく思う。
 
 八時起床。眠い。だが起きる。起きて仕度し、仕事に出かける。今日も雨がぱらついている。うんざりする。がうんざりしていても状況はよくなるはずもない。天気ばかりはこちらの努力などまったく聞き入れてくれないだろう。わりきって元気よく速足で歩く。
 
 B社PR誌、E社ホームページなど。十九時過ぎ、店じまい。
 
 キンモクセイの香りがどこかに消えてしまった。台風が洗い流してしまったのだろうか。昨日は善福寺川の濁流に山吹色の花びらが列をなしながら流されていった。あそこに香りも混じっていたか。

新聞でジャック・デリダが他界したことを知る。ポスト構造主義の第一人者。またひとつの時代が終わったようだ。
 
 古井由吉『野川』。そうか。語り部ってのはニュートラルなんだよなあ。
 
 
-----
十月十一日(月)
「新・二匹の恢復23」
 
 これもまた恢復の証しということなのか。とうとう花子のゴハンおねだりが、朝の四時半からはじまるようになってしまった。麦次郎との喧嘩以前は、もっとも頻繁に起こされていた時間帯だということは、生活のリズムと欲求のリズムがうまくかみ合い、当時のペースが復活したということではないか。仲直りの符丁と捉えたいものだが、一方で連日連夜眠りを妨げられるのも三十代も後半に刺しかかった中年のわが身にはきつい。
 寝る前に、花子はぼくの頭の上のあたりでまるくなっていたのを覚えている。気づけば顔の右側に移動していた。次に気づいたときは、Vの字に開いた足の間を陣取っていた。そして四時半。ゴハンを食べ終えた花子はぼくの左側に回り込み、寒いから蒲団のなかにいれろとねだった。これで一周。こんなことは不仲以前にはなかったことだ。着々と恢復しながらも、花子の新しい一面が生れはじめている。上手に回り込むわけではないが、麦次郎も人といっしょに寝るのは好きだ。この新しい部分が麦次郎とうまく折り合いをつけてくれればよいが、と思う。
 
 八時起床。矢田亜希子とハセキョーを天秤にかける夢を見た。
 
 九時、事務所へ。E社企画、E社パンフレット、事務処理など。十九時、kaoriさん夫妻と合流し、西荻窪の「さい炉」で夕食。刺し身盛り合わせ、アンキモ、薩摩揚げ、ライスコロッケ、里芋と鮭の味噌小鍋、鮭茶漬け、イクラご飯など。はじめて入った店だが思いのほか味はよい。魚は新鮮で旨味もしっかりしたものばかり。kaoriさんの店のお客さんにグルメライターがいるようで、その方のお墨付きなのだそうだ。
 
 夜、今までリビングに軟禁していた麦次郎を寝室に移動させてみる。寝室の対面は花子がいる書斎だから、ドア越しにお互いの存在をなんとなく感じあう距離になる。これを数日繰り返しながら、徐々に存在を認め、受け容れてもらいあえるように仕向ける。花子は冷静に、ケージの中で部屋の向こうを少しだけ気にしていたが、大きなあくびをしたかと思うと香箱を組んで居眠りしはじめた。麦次郎はカミサンが見ていたのだが、しばらくは部屋の中を隅から隅までをクンクン嗅ぎ回り、確認が済んだところでベッドの下に置いた段ボールの上でグースカ眠りはじめたそうだ。二匹とも予想以上にリラックスしている。ひょっとすると、存在に気がついていないだけなのかもしれないが。どうなのだろうか。まあ、焦ることはあるまい。ゆっくりと二匹の心を読み取っていきたい。
 
 古井由吉『野川』。いたずら書きのような地図に込められた思い。
 
 
-----
十月十二日(火)
「新・二匹の恢復24」
 
 猫は気まぐれさの喩えによく用いられるが、ゴハンをねだるという本能的な行為にも気まぐれさは現れるのだろうか。ここ数日つづいた早朝のおねだりを、不思議だが今日はまったくされないのだ。七時、花子より早く目を覚まし、気をきかせてねだられる前に用意してやった。喜んで食べてはいるが、やはり食べたくて食べたくて今までずっと我慢していたという雰囲気ではない。飼い猫だから絶望的な飢えを感じたりはしないだろうし、毎朝の催促も飢えという危機感よりは食欲に由来するものではないか。夕べは麦次とドア二枚へだてただけの距離まで近づいた。この事件が花子の食欲を減退させたのか。わからない。何でも関係づけようとするのは悪い癖なのかもしれない。本能のままに生きるなら、理屈からも因果からも解放されるはずだ。
 
 八時起床。九時、事務所へ。天気予報は今日もまた雨だという。確かに午後からザアザアと、秋雨と言うには少々粗暴な降りの雨の、その音にずいぶん仕事の邪魔をされた。E社ポスター、E社パンフレット、N不動産チラシなど。十五時、市ケ谷のG社で打ちあわせ。十七時、帰社。二十一時、店じまい。
 
 帰宅後、また花子と麦次郎を昨日とおなじ距離に近づけてみた。両者ともあまりに普通、驚くばかりの平常心。しかし、よく観察するとケージに入れた花子はじっと部屋のドアを見つめていることがあったから、やはり麦次のことを意識はしているようである。
 
 古井由吉『野川』。主人公が東京を襲った空襲の記憶を辿っているのだが、その観察眼がどういうわけかずれている。単純に戦争の悲惨さだけを訴えるという表面的な意図ははもとよりこの作家は持ち合わせていないと思うが、それにしてもこの視線はあまりにずれていて、戦争を知らぬぼくにとっては刺激的だ。悲惨な体験を、悲惨さを抜き去って冷静に、緻密に、ともすれば呑気さまで感じられるような文体で語ってみせている。ちょっと引用。
   ■ ■ ■
 毎夜のように警報のサイレンが鳴り、半分まだ眠った頭で縁側から出て庭の防空壕に入り、その眠気のまだ覚えぬうちに警報の解除を聞いて寝所に戻る。そのうちに子供は寝間着に替えずに寝ることを許されるようになった。蚤の出る季節ではなかったが、むず痒いような安易さだった。一事が万事に及んで生活の決まりが少しずつ綻びて行ったようだった。安易へ流れる心は何かにつけてつきまとう怯えと馴染んだ。大人たちはいよいよ閑になったように子供の眼には映った。実際にそうだったかもしれない。物が不足すれば女たちはその間に合わせに忙しくなる、ということもあるが、それにも限りがあり、手が尽きてくるにつれて、忙しなく働いて文字間は余る。男たちもあちこちの生産施設の破壊が順々に及んで目一杯には働けなくなったという事情もあったのだろう。出勤もかなり不定になっていたらしい。
 
 
-----
十月十二日(火)
「新・二匹の恢復25」
 
 今朝はしっかり起こされた。しっかり、という形容は少々おかしいかもしれないが、だがふにゃんふにゃんと情けないが明らかにゴハンちょーだいという意志を含んだ鳴き声と、鳴きながらぼくの寝顔を見つめつづける花子の視線には、やはり「しっかり」が似付かわしいと思う。しっかり起こされたから、朝ゴハンはもちろんしっかりと与えた。食べはじめれば、おとなしくなる。ぼくは花子が食べ終わるのを見届けることなく、また蒲団にもぐり込んで二度寝を決め込む。気づけばゴハンを食べ終えた花子が腕まくらでいっしょに寝ている。いつの間にもぐり込んだのだろうか。だが、気づけばすぐに出ていってしまう。それがこの猫の気まぐれさだ。花子は麦次郎より気が散りやすい。十分といっしょに寝ていられないとは、集中力が持続せず十分以上机に向かうこともできず、授業中は教室をうろうろしている小学生に似ているかもしれないが、いっしょにされては花子も怒るに違いない。花子は大人だ。小学生よりも分別はあるはずだ。もちろん猫としての分別であるが。
 その猫の分別というものがあるのかないのかわからないのが麦次郎だ。ニンゲンに甘えるだけ甘えておいて、プイとどこかに、たとえば箪笥の上や押し入れの奥に隠れてしまう。行動が極端すぎるのだ。極端な行動はスキゾにつながるのではないかと少々心配になるが、やはりこんな行動も含めて麦次郎の人格もとい猫格が形成されているに違いない。とすれば、ゴハンにこだわり一ヶ月前の不仲事件では数日興奮しっぱなしだった花子はパラノということか。あまり対比はしたくない。もちろんしても無意味なだけだ。どちらとも、大切な家族なのだ。
 
 七時三十分起床。八時三十分、事務所へ。E社ポスター、B社PR誌。十三時三十分、水道橋のE社でホームページデザインとパンフレット構成案のプレゼン。好評。受注は決まったが、お得意先はは浪速の商人なので金額面で叩かれそうだ。
帰社後はB社PR誌のためのテープ起こし。テープを聞いてはタイプする、という動作を繰り返していたら頭痛がしてきた。
 二十時、帰宅。風呂に入ったがまだ頭は痛む。
 
 古井由吉『野川』。繰り返し見る夢。
 
 
-----
十月十四日(木)
「新・二匹の恢復27」
 
 二匹は着実に恢復している。とはいえ、その足取りは植物が育つようにゆっくりとしている。昨日と今日を比べても変化はその差を把握することはむずかしいが、一週間前とならそれは可能だろう。ただし、恢復のペースがゆるやかになりつつあるのは確かだ。いいかえれば、二匹ともリラックスの限界、という言い方も変なのだが、それにかなり近づいているのではないか。あとは二匹を上手に、時間をかけながら近づけ、慣らし、おなじ屋根の下に住む仲間なのだと認識させるだけなのだ。今朝も花子はゴハンをねだった。今夜も麦次郎はぼくのあぐらの三角の中に飛び乗ってきた。
 
 七時三十分、花子の視線で目が覚める。爪を研いだので表面がバリバリになった椅子の上から、半眼でじっとぼくを見下ろしている。ゴハンは与えた後だから、単に退屈だったのだろう。もう少し寝ていたかったが、しかたなく起き上がりしばらく花子を撫でくり回した。
 シーズンの立ち上がりに買ったヨウジのセットアップ、今日下ろしてみることにする。襟から左袖にかけてジッパーがついた二つボタンのジャケットと、細身のパンツ。素材は黒のウールギャバジンだ。
 
 九時、事務所へ。E社ポスター、企画など。十三時三十分、小石川のL社へ。桜並木、黄葉はさほどしていないのだが葉色は冬の到来を思わせるほどにくすんでいる。よく見てみると台風の仕業かかなりの葉が地面に落ちている。中途半端に葉のなくなった枝の先々が、灰色の空に浮かんだ黒い毛細血管のように見える。
 打ちあわせ後、Z氏のクルマに乗ってL社の五反田にある編集室に移動。仕事のこと、カラオケのこと、前職のこと、好きな女性のタイプのことなどで話に花が咲く。十八時、帰社。二十時、店じまい。
 
 庄野潤三「蟹」を読む。ごく平凡な一九五〇年代の家族の夏休み。のリアリズム。退屈と刺激のはざまを揺れ動くような文体。うれしさと不安の間を揺れ動くような文体。
 
 
-----
十月十五日(金)
「新・二匹の恢復28」
 
 七時三十分起床。今朝も花子に五時半に起こされたが、その後の様子はじつに大人しいものだ。食べさえすれば満足らしい。
 
 八時四十五分、事務所へ。八丁堀のJ社、大崎のE社で打ちあわせ。途中三時間ほど時間が空いてしまったのだが、電話連絡をしていたらあっという間に空き時間が消えた。
 
 二十時三十分、店じまい。「五鉄」でホルモンを食べてから帰宅。
 
 カミサンがいうには、麦次郎はかなり落ち着いてきたが花子は要求が多くなったり甘えがおおげさになったりと、少々落ち着きがないらしい。kaoriさんに処方してもらったバッチフラワーレメディを使いきったせいだろうか。効いていれば落ち着くはずなのだが。それとも本来の花子の姿に戻ったということか。
 
 森内俊雄「門を出て」読了。不倫とセックスと幽霊の短篇。
 
 
-----
十月十六日(土)
「新・二匹の恢復29」
 
 八時起床。花子は相変わらず中途半端な要求ばかりつづけ、麦次郎は大きな態度で甘えつづけている。二人ともいささかおかしな表現なのだが、こう書くのがいちばんしっくりくるようだ。
 
 九時、事務所へ。休日出勤。N不動産、E社PR誌、E社企画など。二十時ごろ、突然Macがフリーズ。もっともフリーズとは突然するものだ。重たいデータを扱ったせいか、ちょっと不安定になったようなので、使っていたillustratorの割り当てメモリをドカンと増やしてみたら、今度はなぜかファイル自体が損傷してしまったようで開かない。あの手この手でなんとか開こうとするが、まるで手ごたえがない。最終的にはなんとかすることができたのだが、さすがにぼくのPowerMac G4も使用五年目でハードがおかしくなってきたのかもしれない。買い替え、だろうか。また出費だ。
 
 二十一時三十分、店じまい。カミサンと上海料理店「喬家柵」で簡単に夕食。トンポーロー、海鮮春巻、麻婆茄子、水餃子、青島ビール。これで三千円と少々。なかなか安い。味も本格的だ。
 
 古井由吉『野川』。夜中にひとりたたずんでいると、呼びもせぬのに死者が寄って来る。そんなエピソードの考察が延々とつづく。
 
 
-----
十月十七日(日)
「新・二匹の恢復30」
 
 五時、花子に起こされる。腹が減ったのだ。ああそうか、ゴハンだな。ゆっくり身体を起こすと、花子は青い椅子の座面に前肢を掛け、バリバリと景気よく爪をとぎはじめた。ゆっくりと立ち上がり、ドアを開けてリビングに向かいゴハンの用意をしようとしたが、そのとき自分の足元に茶色いウナギがにゅるりと、しかしすばしこく滑るように通り抜けるのを見た。あ、と思ったが後の祭りだ。説明するまでもなく茶色いウナギの正体は花子だ。ウナギ猫はそのまま腰を低めながらサササとドアを開けっぱなしにしておいた寝室へと滑り込み、あちこちをクンクンクンと嗅ぎはじめた。ここは毎日、一日につき四、五十分ほど麦次郎がカミサンといっしょにダラダラと過ごすだけの場所になっている。向かい合わせの書斎に軟禁状態となっている花子とリビングにおなじく軟禁状態になっている麦次が、おたがいの存在をなんとなく感じて、対面したときの下地を作るために小一時間の「感じあいタイム」をつくっているのだが、やはりこのときに寝室に麦次が、あるいは何か猫なのかなんなのか、カミサンとは別の存在がいるということは気づいていたらしく、その正体を暴こうとしてか、しきりに臭いを嗅いではうろうろとしている。ベッドの下の確認にも余念がない。ここは二匹が決裂してしまったときに花子が何時間も身をひそめていた場所だから、そのときの記憶が戻ってしまうかもしれぬと少々不安になったが、あいにくそんなことはなく、嗅覚をきかせる花子の様子は平常となんら変わりがない。慌ててゴハンを用意し、それで花子をおびきよせて寝室から書斎に戻ってもらった。部屋の外にでるということを覚えてしまったかもしれない、喬からは落ち着きなく何度も出せ出せと要求するかもしれない、そんな想像をしていたら少々興奮してしまった。案の定花子はしばらくの間、ドアのそばをうろうろしてはフニャンフニャンと情けない声で鳴きつづけていたが、しばらくすると落ち着いたのか、ぼくの寝る蒲団の上でグースカ眠りはじめた。
 
 九時起床。花子は落ち着かない様子だが、いつもよりは若干という程度で神経質というほどではない。麦次郎は押し入れに篭りっぱなしだ。こうしてみると、ことごとく何から何まで対照的な二匹である。
 午後より外出。新宿の京王百貨店でオヤジの誕生日祝いを購入。つづいてビックカメラで、買い替えを検討中のiMac、買い替えないとやばそうな雰囲気があるビデオの代わりにDVDレコーダー、まだ大丈夫そうだが壊れるのは時間の問題、かなり挙動不審になりつつある洗濯機と冷蔵庫の後継候補を見る。銀イオン洗濯機とノンフロン冷蔵庫、どれもこれも値段はこなれてきつつあるが、一気に買い求めたら予算オーバーだ。「トロワグロ」のカフェでお茶をしてから帰宅。
 
 帰宅後はグースカ寝てしまう。油断していたのか、鼻炎気味になってしまった。近ごろ急に冷え込んできたせいか。
 
 夕食はチゲ鍋。鼻水をこれで直してしまおうという魂胆がなくもないが、食べたところで治らなかった。今も洟汁がグジュグジュである。
 
 尾辻克彦「シンメトリック」。これは十年以上前に一度読んでいるのだけれど、今読んでも十分新鮮。読むのがわくわくする純文学、といったら変だけれど、そんな形容がよくあう作品。主人公とその娘の親子関係が楽しいのだ。しかし、どこかにさみしさも隠れている。それが楽しさ、明るさに覆われる。その、覆われ方が凡百のエンターテイメント作品よりも緻密でいてかつさりげない。
 古井由吉『野川』。死んだ友人の父親の記憶に、自分の父親、母親の死が重なり、ずれ、はじけあいながら複雑な記憶の織りをつくる。
 
 
-----
十月十八日(月)
「新・二匹の恢復31」
 
 寒かったのだろうか。夕べは花子がずっとそばから離れなかった。やはり寒かったのだ。起きると少々喉が痛く、鼻水はいつもより大量に出る。花子は大丈夫かと心配になるが、不調な様子などすこしも感じられず、朝からモリモリとゴハンを食べている。しかし、寒かったせいだろうか、五時、六時あたりにぼくのことをしつこく起こしたりはしなかった。春眠暁を覚えずというが、秋眠は朝ゴハンを覚えないものらしい。
 
 九時、事務所へ。あいもののセットアップでは、今朝の冷え込みは少々こたえる。洟をすすりながら速足で歩く。
 
 電話がなりやまず、新規物件も増え続け、すぐに対応しなければならない緊急事態も多発。こんなことは年に一度、あるかないかだ。二十一時、なんとか状況を収束させることができた。しかし、今日予定していた分の仕事をこなせていない。これがまた大きな問題。 新しいMacの購入は見送ることにした。あと二年くらいは今のマシンを持たせたい。OS Xの導入はそのとき一気にしてしまおう。
 
 古井由吉『野川』。芭蕉の連句の解釈について。「有明の主水に酒屋つくらせて」
 
 
-----
十月十九日(火)
「新・二匹の恢復32」
 
 このタイトルをつづけるようにしてから、とうとう一月を越えてしまった。花子と麦次郎の関係修復には思いのほか時間を費やしているようだが、もともとのんびり着実にやろうと決めていたので、一月かかってようやくドア二枚へだてたところで互いの気配を感じあうという状況自体にはさほど驚かないのだが、寝室のベッドを使わずクッションフロアーの上に薄い蒲団を敷いて寝るようになってから一月過ぎたことのほうが意外に感じる。とかく最初はひどい肩こりと腰痛に悩まされたが、今は身体がなれたのか、生活や仕事に支障が出るほどは悪化しない。だが、まあ自分のことはどうでもよい。問題は花子と麦次郎なのだ。問題の片方、ふっさりした茶色い雌のほうは、今朝もまた五時に大騒ぎし、部屋から抜け出されては困ると思い机の天板の上にその小さなふさふさの身体をひょいと載せ、そこでお座りしてなと命じてからゴハンの用意にダイニングへと向かったのだが、人の言うことなど大人しく聞くような猫ではないものだから、タタッと机から飛び降りるやいなや、またもや廊下を横につっきり、開け放しておいた寝室のベッドの下にスライディングしてしまった。またゴハンでつって出てきてもらうしかない。そう考えた矢先、なぜか花子め、ひょいと姿を現した。興奮している様子はないので、そのままそっと抱きかかえ、なだめながら再び書斎につれていった。ゴハンを与えた後はしばらく「もいっかい外に行く」と大騒ぎしていたが、ケージに入れてみたら五分と立たぬうちに静かになり、おかげでぼくもしっかり二度寝ができた。
 と日記を書いている自分の目の前に花子がいる。正確には、日記を書くパソコンの横、キーボードの左前あたりにおすわりをしている。縦書き原稿用紙モードにしたワープロソフトの1マス1マスに文字がどんどん埋められていくのと、キーボードのあちこちに五本の指が伸びてはかちゃかちゃと音がなるのを、喉をゴロゴロ鳴らしながら、賢そうな目つきで観察している。邪魔はしないからそのまま放っておいたら、単調な動きに飽きたのか、ドアのほうへと静かに移動して、じっと扉の下のあたりを見つめている。向かいの部屋にカミサンと麦次がいるのに気づいたようだ。興奮はしていない。ただ、気配を全身で感じ取ろうと大人しく耳や鼻や髭や尻尾を研ぎ澄ませている。猫もニンゲンとおなじように、気配を肌で感じるということはあるのだろうか。感覚を研ぎ澄ませろ、と言われると、すぐさまぼくは眼を半分ほど閉じ、耳に意識を集中させ、そして全身の皮膚の薄皮を一枚剥いたような感覚で、空気の動きや光の角度を感じ取ろうとする。全身を体毛に覆われているのだから、猫の場合はそんな感覚はないかもしれぬ。だが、毛の一本一本の先端に意識を向かわせるということはありそうだ。興奮すると猫は総毛立つ。あれは体内で爆発した気を、毛の先端から放出することでバランスを保とうとしているのではないだろうか。今日の花子はまったく総毛立っていない。耳の角度をちょこちょこ変えながら、眼は一点だけに向けられている。静かだ。ひょっとすると眠いだけなのかも知れない――そう書いたら、眠くないよと言わんばかりの表情でこちらに振り向かれた。
 
 八時起床。雨。また台風が近づいている。さらに困った熊、飢えた熊が出てきてしまうのではないかと心配になる。
 九時、事務所へ。E社ポスター、K社パンフレットなど。十六時、歯医者へ。先日スポンと抜けてしまったツメモノをもう一度入れてもらう。治療用の椅子が新品に変わっていた。カミサンからすでに情報は得ていたので、先生に「これが自慢の椅子ですね」と話しかけると、先生ニコニコしながら「納得できる道具を使わないと気分よく仕事できない」と返してきた。確かに道具は大切である。うーむ、だとすればMacの買い替えを断念しようとしているぼくは、道具選びの時点でともすれば失格か。
 そんな話をしたからだろうか、またMacの調子が悪くなる。やはり買い替えるべきなのか。
 二十一時帰宅。雨はまだ降り止まない。
 
 古井由吉『野川』。蝉の鳴き声から死者の声、そして過去の記憶へと語り手の意識は飛び石していく。
 
 
-----
十月二十日(水)
「新・二匹の恢復33」
 
 明け方に起こされてから二度寝するまでのことばかり日記に書いているが、この時間がもっとも花子と密に接しているのだから仕方ないだろう。夕食後もほとんどの時間をともに過ごすのだが、ぼくがCDを聴きながら――今日はひさびさにJapanの『Oil on Canvas』を聴いた――ストレッチを済ませ、つづいて日記を書いているあいだ、花子はシッコをしたり机の上をうろうろしたりカリカリを食べたり食べ終わったゴハンのお皿を舐めたり壁に立て掛けてあるマット型のマッサージ器のカバーをバリバリと引っ掻いたり椅子の座面をバリバリと引っ掻いたりステレオのスピーカーをバリバリと引っ掻いたり、引っ掻いてばかりというわけではないが、好き勝手なことばかりしているから撫でたり抱いたり話しかけたりすることはない。蒲団に入ってからも、しばらくは花子め暗闇の中をウロウロするから、一日の最後を花子との触れあいで締めくくるということもない。ひょっとすると、ぼくと花子の関係は飼い主とドウブツの関係と呼ぶにはあまりに希薄なのではないかと訝ってみるが、そもそも動物を溺愛しすぎる一部の愛犬家・愛猫家には若干の違和感を感じてしまうようなニンゲンだから、おそらくぼくのドウブツの飼い方、ドウブツとの接し方はこれで正しいのだ。愛情ならある。いつでも花子と麦次の恢復を願っている。君子の交わりの淡きこと水のごとしというが、ぼくと花子の関係は水よりは濃く、オシッコよりは臭くない、といったレベルか。今さっき、花子はぼくのストレッチを邪魔するように小便した。ストレッチを中断し、すぐにそれを片付けた。ニンゲン、生きている時間は有限である。その一部を、ドウブツを生かすために、いやドウブツとともに生きるために、ドウブツに提供する。それがドウブツを飼うということだ。
 
 柴咲コウといっしょに仕事する夢を見た。いかにも成金なベンチャー企業の社長とランチミーティングするのだが、なぜそこに柴咲コウなのかがわからない。だがぼくと柴咲は仲がよいらしい。仕事上のベストパートナーとでもいうべきか。もちろん夢の中でも柴咲コウは柴咲コウ以外の何者でもなく、したがって綺麗で個性的な旬の女優のままだ。ファンでもなんでもないというのに、なぜ柴咲と仕事をしたのか。七時、訝りながら眼を覚ましたが、身体を起こすことがなかなかできない。グズグズしているうちに柴咲の記憶はどんどん薄れ、たちまち三十分が過ぎた。しかたなく、起きる。身支度する。
 
 八時三十分、事務所へ。また台風だ。大型だという。自然の気まぐれさ、波瀾万丈な空模様に呆れながら傘を差して歩く。
 K社DM、N不動産チラシなど。昼休みも満足に取らず、ほぼノンストップで作業を済ませ、十八時過ぎにとっとと帰った。
 
 現在、二十三時過ぎ。雨音はときおり急に激しくなる。静まったと思えば、今度は善福寺川の流れの音が耳につく。雨音に混じって、空気の流れる音も聞こえる気がする。風の音、とは言いたくない。はっきり区別しておきたい。暴風域にはまだ突入していない。空からまっすぐ、風に煽られることなく降る雨が、空気を静かに裂く音か。雨足と雨足のあいだを、ゆっくりと湿気をおびながらゆらめく空気の音か。耳をすませばすますほど、空気の音は大きくなってゆく。
 
 古井由吉『野川』。父の看病の記憶に重なる、髭という生理現象の存在感。そして、他界した旧友・井斐が感じ取った、雨の止む気配。ちょっと引用。
   ■ ■ ■
 表は止んだようだ、と井斐は顔をあげた。雨の降っていたことを私は思い出して、止んだと、どうしてわかる、とたずねた。それは表を往く人の足音の、響きが違う、と井斐は答えた。
 いましがた、止んだところだ、と言った。
 また耳を澄ます顔になった。
 遠くへ聞き耳を立てると、遠くからもこちらへ、聞き耳を立てられているような気がするものだ、と言った。
 顎へ手をやった。
  
 
-----
十月二十一日(木)
「新・二匹の恢復34」
 
 一時三十分、花子に起こされる。
 三時十五分、花子に起こされる。
 四時五十分、花子に起こされる。
 ここまでしつこくやられると、相手は猫なんだからとなだめる自分がいる反面、どうしてこんな嫌がらせをするんだと怒りはじめる自分もいる。頼むから寝てくれ。頼むから寝かしてくれ。そう何度も言い聞かせるが、聞く耳なんかハナからもっちゃいないわ、とでも言いたそうな顔で見返してくるからさらに憎たらしくなる。だが、考えるにこんな行動は以前もちょくちょくあったわけで、何度も眼を覚ましてしまうのは、書斎を閉め切りにして寝ているから花子の書斎の内側だけで自分の遊びたい欲求を伝えるなり自分で昇華させるなりしなければならないから、その様子がダイレクトにぼくへと伝わった結果、ぼくは何度も目が覚めるということなのだ。要するに、花子の精神状態が以前へと戻りつつあるのに、住環境が以前に戻っていないためにこうした事態が起こるのである。ならば責めるべきは住環境を改善しようとしないニンゲンのほうかもしれない。しかし、もう少し様子を見なければ。二匹の引き合わせは、できる限り慎重に行きたい。花子の変化にあわせて彼女の行動半径を広げてやるのは、まだ危険かもしれないのだ。
 
 八時起床。九時、事務所へ。E社ポスター、見積、E社パンフレットなど。午後、カイロプラクティックへ。施術後は頭痛が取れるのだが今日はあまり効き目がないのは、頭痛の原因が肩こりや腰痛ではなく睡眠不足にあるからだろうか。
 十九時、代官山のJ社へ。O社新規案件の打ちあわせ。
 二十時三十分、帰社。N不動産チラシ。二十二時、店じまい。
 
 帰宅後、麦次郎はゴハンをもぐもぐと食べるぷちぷちが気になって仕方ないらしく、何度も近寄ってはカゴの中を覗き込んでいる。いたずらするなと注意すると、遊んでもらえるかと勘違いして猛ダッシュする。ここしばらくは、子どもの頃のようによく遊ぶようになった。おまけにさみしんぼである。眼を話すとアオアオと鳴き叫ぶから少々タチが悪い。カミサンが花子にかまっていると、どうやら妬くらしい。
 
 古井由吉『野川』。人違い。
 
 
-----
十月二十二日(金)
「新・二匹の恢復35」
 
 夕べは一時に床に就いたから、六時間少々寝た計算だ。これで十分、と身体が、いや脳味噌が言っているのだろうか、昨日は一日中悩まされた頭痛が嘘のように消え、ついでに喉の痛みや鼻水といった風邪の気配も消し飛んだ。昨晩昨朝の大騒ぎを反省したのか、今朝の花子はゴハンちょーだいとおねだりはするものの、切羽詰まった鬼気迫るほどのねだり方ではなくなっている。何かを訴えたそうな態度も消えた。
 
 八時三十分、事務所へ。ここ数ヶ月はヘッドホンで小説の朗読作品のMP3を聞きながら事務所へ向かうのが習慣になっていたが、脳味噌が朝からこんがらがりそうなので、忙しい期間だけ止めてみることにした。すると不思議と、街の気配が音になってどんどん耳へと重なり覆いかぶさってくる。気がつけば吹く風に当たる草木のざわめきはほんの少し冬の音をまじえているようだ。ヒーヨ、ヒーヨと高く鳴くヒヨドリの声が今年の秋はたび重なる台風に好物の木の実を根こそぎ取られたためか、心持ち低くてかぼそいようだ。そうだ、自分はこの、季節の微妙な表情を書きつづりたくて日記を書きつづけているのかもしれない。だとすれば、朝っぱらからヘッドホンはあまりにも風情がなさすぎる。だが、駅に近づくほどに自分の頭の中に仕事のこと、次の段取りはどうしたらいいか、よいアイデアはないものか、そんなことに侵食されはじめる。
 
 メールチェックを済ませてからすぐに銀行まわりと事務所の家賃の支払いを済ませ、資料をまとめて水道橋のG社へ。打ちあわせ二本を立て続けに済ませ、すぐに西荻窪へトンボ返り。サンドイッチで素早く昼食を済ませ、E社ポスターのキャッチフレーズを黙々と考えつづける。十六時三十分、プレゼン。一案は採用になったが、もう二枚分考えなければいけなくなってしまった。コピー千本ノック状態。苦笑。つづいて五反田のL社にてE社の別の案件の打ちあわせ。十九時、帰社。二十一時、店じまい。慌ただしい一日。
 
「四川飯店」で久々に夕食。エビとギンナンの炒め、鶏肉とクワイの味噌炒め、水餃子。店員さんから「お仕事が一段落したんですか」と聞かれたので「全然してない」と正直に答えた。
 
 古井由吉『野川』読了。死ぬために人は生まれる、と言えばニヒリストお決まりのセリフのようでこっぱずかしいが、六十歳をまわった、少しずつ死を意識しはじめた者がそれを口にすれば、その言葉からは何やら真実のような物が見えてくる。もっとも作者はこの作品ではそんなことは一言も書いていない。綴られているのは、記憶の底にしつこくこびりつくような苦い体験の回想と、他人の死を見届け、その死と死までの経緯、すなわち生について振り返りつづける過程での、生と死に関する地味な思索の繰り返しだ。おそらく、作者はこの体験と生死、これらを織り交ぜながら考え綴ることで、加齢という人間の宿命、死へ至る過程の意味を追求しようとしたのかもしれない。体験が狂気に支えられていると知れば、死に至るまでの「生」は常に狂気に支えられていると言える。だが、だとすれば狂気とは生そのもの、生とは狂気を狂気と思わず、狂気と気づかずに存在しつづけることだ。そんなことを考えながら、読んでみた。
 
 
-----
十月二十三日(土)
「新・二匹の恢復36」
 
 八時起床。今朝の花子も大人しい。ぼくが眼を覚ますと、伸びをしつつフゥーンと鳴きながらクローゼットの棚から出てきた。少々甘えるような態度をみせたが、そこには心細さやさみしさは見受けられない。無論ゴハンちょーだいのわがままさも、ない。
 麦次郎はカミサンとぴったりくっついて寝ていたが、ぼくが起きるとむっくりと身体を起こしてカーテンの内側でひなたぼっこをはじめた。窓からは隣の家の屋根越しに、わずかに秋晴れの朝陽が見える。朝陽と呼ぶのはちょっと憚られそうな、遅い朝の暖かな光。
 
 九時、事務所へ。休日出勤。陽は射していたが、いつのまにか雲に覆われ、冬の重い陰鬱さに似た色の空になっていた。秋晴れが見たい、と強く思う。
 
 O社パンフレットに専念。
「猫ヶ島」のしまちゃんから電話。しまちゃんが今がんばっているヒーリングのことについて少し話す。しまちゃんとおなじヒーラーのゆうりさんの夢に麦次郎が登場したそうだ。麦次はなにやらゆうりさんに話したいことがあったようだが、語る方法がわからないのか、話すふんぎりがつかないのか、何も語ってくれなかったそうだ。そんな話を聞いたので、麦次の「話したいこと」とは何だろう、と考え込んでしまった。
 
 昼食はカミサンと最近できたハンバーガー店「モ・カッフェ」へ。有機野菜など素材にとことんこだわったハンバーガーを、飾らぬ態度で気軽に楽しませる店。味がすばらしいのは書くまでもないが、実直で信念のある店の方針には好感が持てる。
 
 十八時ごろ、何度も地震が起きる。二十時に帰宅したら、テレビでは新潟で震度六強の大地震があったと報じている。情報が錯綜しているのがアナウンサーの報じ方と態度でわかった。
 
 大西巨人『深淵』を読みはじめる。記憶喪失だった主人公が空白の記憶十二年分を取り戻そうとする話。と書くとエンターテイメントだが、鋭利で緻密な文体にまず圧倒されてしまう。
 
 
-----
十月二十四日(日)
「新・二匹の恢復37」
 
 毎朝五時、ほぼおなじ時間に花子に起こされ、ゴハンを与えて、また眠る。はじめは一連の動作から、そしてゴハンを食べる花子の様子から、二匹の仲直りの暗合を読み取ろうとしていたが、安定した日々がつづくとそうした意識までも惰性化する。一日が惰性ではじまるような気分である。惰性、と書くとなにやらネガティブな雰囲気がせぬでもないが、要するに惰性とはこれまでの加速を活かしながら先へと進むことで、積極的な改革の意識こそはないものの、効率的に事を進めようとすることに変わりはない。しかし新し物好きの性分のためか、このように日記に綴ってみると、二匹恢復のための新たな試みをそろそろしてみるべきではないのかと焦ってしまうこともある。だが、その焦りが大きな過ちとなることもわかっている。惰性、惰性と自分に言い聞かせてみる。
 
 八時起床。仕事は溜まったままだから、今日も事務所に行かなければならない。目覚ましに反応し身体をむっくりと起こしてみたものの、意識がどこか遠くへ行っているような感覚で、花子におはようと挨拶するまでに五分もかかってしまった。のそりと起き上がり、身支度をする。軽く体操をしてみたら、逆に意識が頭に戻ってきたようだ。テレビでは昨夜の地震の被害を延々と報告しつづけている。新聞はまだ見ていないが、一面はこの記事で埋め尽くされているだろう。眠気から解放された脳味噌に、大地震という現実が急に冷たく沁み込んでくる。
 
 九時、事務所へ。O社パンフレット、J社企画、E社媒体資料など。十八時帰宅。
 偶然、インターネットで被災地に住む方のブログを見つけた。夕べは庭で寝たこと、ケータイの電源がいつまで持つかが心配なことが短く書き連ねてある。ケータイかPDA+PHSでアップしたらしいその文章は、簡潔なだけにかえってなまなましく現場の緊張感と悲壮感を伝えている。だが、そこにはひとこと「田舎の強さも実感している」ともあった。なるほど都会では阪神淡路大震災以上の惨事になりかねなかった。田舎の強さを実感できる。そんな姿勢と視点があれば、地震にも冷静に対応できる。そう強く思った。
 
 帰宅後、麦次郎が妙にベタベタと擦り寄ってくる。いや擦り寄るという表現は適切ではない。あぐらを組んだぼくの足の三角の部分にスポリと入っては、ゴロゴロと喉を細かく刻むように震わせている。甘えている様子ではない。腹が寒いのか、とぼってりした脂肪をいじくってやったが、そういうわけでもなさそうだ。
 
 夜、また「猫ヶ島」のしまちゃんからカミサンに電話。ご主人が新潟出身なので心配したが、直接的な被害はなかったようである。
 
 大西巨人『深淵』。北海道の病院で意識を取り戻す主人公。国鉄↓JR、昭和↓平成、ソ連↓ロシア、東京都の市内局番四桁化、埼京線の敷設、と十二年の記憶の欠落の描写が具体的でおもしろい。それよりも、消灯時間が来た病院で、記憶喪失という事実を受け容れた主人公がひとまず眠ろうとする場面での描写がカッコよすぎ。引用。
   ■ ■ ■
 空白の約十二年における夜の睡眠習慣はいかにもあれ、いよいよ麻田は、瞑目して、眠ろうとした。存外に早く、眠気は、彼に襲来した。半ば眠りに落ち込んだ彼の内部を、『明朝は、また別の記憶喪失が、自分を支配しているのではなかろうか。』という恐怖が、電光のように貫き走って、彼は、一瞬慄然と目を覚ました。それは、人が生と存在との深淵に望んだ際に抱くであろうような根源的畏怖であった。
 
 
-----
十月二十五日(月)
「新・二匹の恢復38」
 
 八時起床。いたって平凡な朝だ。空は無個性な灰色で陽の光は少しも射さなかったが、それでも麦次郎はぼくより早起きしたらしい。しかし、やはりお天道さまを拝めなかったのは残念だったらしく、そそくさと押し入れにもぐり込んでグースカ眠りはじめた。西側にある書斎で暮らす花子は、おそらくかれこれ二ヶ月近く陽の光を直接浴びていないはずだ。もっとも、十月に入ってからはぼくだってほとんど明るい太陽を見た覚えはないから、西側ばかりだろうがなんだろうが大差はないのかもしれない。麦次郎と花子が二匹ならんで窓辺でひなたぼっこしているところを夢想してみる。何気ない光景だが、今のぼくら夫婦にはあまりに貴重だ。この光景が見たいからこそ、こうして猫とニンゲンの家庭内別居はつづいている。
 
 九時、事務所へ。J社企画、E社企画など。午後、麻布十番のO社にて打ちあわせ。
 二十時、店じまい。カミサンの手伝いに来ていた義母に、痩せ絶やせたと何度も言われた。そりゃそうだ。二ヶ月で六キロ痩せたんだから。でも、これが適性体重だと思っている。身は軽い。
 
 帰宅後、ストレッチしながらひさびさにJapanの「錻力の太鼓」を聴く。「Cantonese Boy」のリズムに合わせて猫じゃらしを振ったら花子がよろこんで遊びはじめた。
 
 大西巨人『深淵』。兄との十二年ぶりの再会。兄からすれば、失踪宣告を受けて戸籍上は死んだ人間との再会か。
 
 
-----
十月二十六日(火)
「新・二匹の恢復39」
 
 八時起床。雨。また雨だ。今年は天候がニンゲンの敵になることが多いような気がする。新潟の被災地に冷たい雨が降る。そんな想像で心を痛めてしまう。まずは仮設住宅が必要。一刻も早く用意してもらいたいものだ。
 
 ふかふかの羽毛布団が嫌いな花子はまったくいっしょに寝ようとしない。夜はどうやら寝床を転々と変えながら退屈な時を過ごしているようだ。ぼくもカミサンも事務所に行ってしまう昼間が退屈ならば、いっしょにいるくせにグースカ寝ていて構ってくれない夜もまた相当に退屈なはずだ。窓でも開けておけば外の様子に多少は心も晴れる、いや晴れるというよりは動くのだろうが、夏ならまだしも昼夜の寒暖差が激しいこの季節、寝ているあいだに開けっ放しというわけにはいかない。もっとも、開けておいても窓の向こうは最近立ったばかりのマンションの壁だから見たところでおもしろみなどあるわけもない。こう書き連ねてみると花子はひどく過酷な閉鎖空間に軟禁されていることがよくわかる。大きな窓を有するリビングをあてがわれた麦次のほうがまだ開放的である。しかし、喧嘩したときの二匹の興奮具合から考えれば、やはり今の部屋のあてがいかた以外には考えられない。ぼくはと言えば、眠ってしまい意識を失っている最中もできれば花子の存在をしっかり感じていたいと感じるのだが、現実は朝五時ごろ、ゴハンちょーだいの鳴き声で無理やり叩き起こされ、この一瞬だけ花子の存在を強烈に感じるだけ、夢の世界やまどろみの中にまで花子はやって来ない。ゴハンちょーだいは勘弁してほしいのだが、夢の中に姿を現すのなら大歓迎だ。
 
 九時、事務所へ。九時、そうそうに551から紹介されたT生命の営業I氏から電話があったが、今回の提案はコストメリットが感じられなかったのでお断りした。率直に、遠回りせず、結論を伝え、最小限の言葉でその理由を語ってみせたら、I氏は子供のようにがっかりした声で、わかりましたー、とだけ答えた。みんな必死だ。だから失望したときの落差も激しくなる。しかし、おつきあいで保険に入るほどの余裕は、今のぼくにはまったくない。
 E社媒体資料、O社パンフレットなど。午後、税理士のNさんと中間決算についての打ちあわせ。二十時、店じまい。「西荻餃子」で餃子を買ってから帰宅する。
 
 大西巨人『深淵』。自分が十二年前の失踪前日になぜ家族や会社に嘘をついてまったく違う場所へ宿泊しに行ったかを兄に説明する主人公。そして兄からは家族の近況を聞く。
 
 
-----
十月二十七日(水)
「新・二匹の恢復40」
 
 冬は近いようだ。明け方の冷え込みは身体中を暖かな毛に覆われた花子にも少々きつかったらしく、彼女が嫌いな羽毛布団にくるまって寝ているぼくに、蒲団の中に入れてくれとせがんできた。すぐに左側をめくり上げて招き入れたが、途端にぼくのほうが小便をしたくなり、立ち上がって便所へ行くために、しかたなく花子に出ていってもらった。釈然としない、とでも言いたそうに花子はしばらく書斎のあちこちをうろうろしていた。
 
 八時起床。九時、事務所へ。風が冬めいてきた。いや冬というよりは晩秋か。葉を打つ音が乾いている。ときおり枯れ枝を風が切るピュウウと甲高い音まで聞こえる。眼をこらせば木々の緑は一ヶ月前と比べたらずいぶんと色あせくすんでいる。
 
 E社媒体資料、N不動産、K社DMなど。二十時帰宅。
 
 帰宅後、着替えたり片付けたり家の中をうろうろと動きまわっていると、麦次郎がアオンアオンと大きな声で鳴きはじめた。ぼくの姿が見えなくなると鳴くらしいので、なんだなんだおまえはうるせえなあ、と彼がいるリビングへ戻ってくると、すかさずぼくから眼を逸らして猛ダッシュ、部屋の隅に置いた猫トイレに直行、そのまま神妙な顔つきで踏ん張りウンコした。くせえのなんの。排便し終えた麦次はそのまま勢いよく猫トイレから飛びだしふたたび猛ダッシュ、リビングをグルリとまわるように駆け、たちどまって挑発的にぼくの顔を見た。ウンコを片付けろってことか。はいはいわかりました。私はあなたにとって便所の水流すレバーなんですな。ったく。
 
 大西巨人『深淵』。膨大な知のデータベースに支えられて成立する緻密で隙のない文体。真似できないな、あれは。でも、その文体で緻密に主人公とその妻の十二年ぶりの情事の、とくに体位のことばかりを描写するのはいかがなものか。おもしろかったけどね。
  
 
-----
十月二十八日(木)
「新・二匹の恢復41」
 
 八時起床。晴れた空が広がっているようで、カーテン越しに透ける朝の光の明るさに、ぷちぷちは狂喜乱舞している。だが猫たちは何の反応もなく、麦次郎は寝室で眠りつづけ、花子は早くから目覚めてはいるが、陽のあたらない西の部屋だから朝陽の明るさなどわかるはずもなく、したがっていつもと様子は変わらない。二匹がくっつきあって、カーテンのドレープに尻尾を見え隠れさせながらひなたぼっこする姿を想像してみる。悪くない。
 
 九時、事務所へ。K社DMに集中。
 昼、「サンピエロ」のフランスパンを、何もつけづに一気食いしてみた。うまいのだが、それ以上に楽しい。なぜ楽しいのだろうか。
 昼休みに新星堂で「新ゲッターロボ 第四巻」を購入。安倍晴明との戦いは佳境を迎える。
 二十時帰宅。
 
 満月は人の心を乱すというが、猫もまた月明かりに心乱されるようだ。月明かりに照らされたわけでも、あの真円に近い天体の形を見たわけでもないというのに、麦次郎はしきりに鳴き叫び、ぼくやカミサンを挑発しつづける。花子はゴロゴロと喉をならしながらぼくの肩に飛び乗ってくる。花子はともかく、麦次郎は以前にも満月の夜に興奮したことがあった。仲直りした後もこんな状態がたびたび起こっては、一触即発という事態がまたやって来るかもしれない。
 
 
-----
十月二十九日(金)
「新・二匹の恢復42」
 
 八時起床。九時、事務所へ。E社企画、K社DMなど。
 十三時三十分、「Rosso」で髪を切る。気晴らしには最適。
 二十時、店じまい。「ぼんしいく」で夕食。日本酒「開運」、鶏肉とジャガイモの八角煮、レンズ豆とニンジンリゾットのコロッケなど。開運はやや甘口だが切れ味があり、ここの素朴だが実は手の込んでいる、しかもややエスニックテイストすらある料理に不思議とよく合う。
 
 猫たちの様子はほぼ変わりがない。指導をお願いしている獣医の先生から、そろそろご対面に向けて次のステップに進もうという連絡も入った。まずは匂いの交換である。動物は匂いから膨大な量の情報を得ているらしいから、気配↓匂い↓視覚による実体↓通常の生活という今回の流れは、いわば少しずつ存在を認知し受け容れるためには理想的な手順なのだと思う。
 
 大西巨人『深淵』。一見、失われた記憶を取り戻す男の話のようだが、政治や文学、性、家族など、様々な問題が深い部分、まさに深淵で錯綜している。読み手にも相当の知識と気合を求めている。この作品としっかりコミュニケーションが取れる読み手って、少ないんだろうなあ。ぼくはやっとこさ、という感じ。ただし、きちんと楽しめている。表層敵かもしれぬが。
 
 
-----
十月三十日(土)
「新・二匹の恢復43」
 
 二週間ぶりの休日は、十二月中旬並の寒さに冷やされた冬の雨が降る、重く陰鬱な空模様。出かける気も失せ、一日中猫たちと寝て過ごした。
 
 ときどき花麦の匂い交換。麦次郎がよくすっぽりと入り込んでくつろいでいる箱や、紫色の、頭は猫だが身体が人魂か一反木綿みたいに長くペロペロに伸びているおかしなデザインのぬいぐるみなど、お気に入りの物を花子に与え、花子の部屋からは毛布やタオルを持ちだして、麦次郎に与えてみた。花子も麦次郎も、匂いを一度はしきりに嗅ぐが、一度納得するともう十分とでも思うのだろうか、すぐに箱やタオルから離れてしまう。ほら、もっと嗅げよ、嗅いでみろよと勧めてみても、いやもういいです、別になんともありませんよと平常心で他のことをはじめてしまう。匂いに含まれた互いの存在についての膨大な情報を、猫たちはしっかり読み取り、解釈し、自分に敵対する存在ではないという判断を下しているということだろうか。だとすれば、万事順調。折り返し地点を過ぎたのだろう。
 
 大西巨人『深淵』。失踪中に生れた子ども・白妙とのあっさりとした対面。
 
 
-----
十月三十一日(日)
「新・二匹の恢復44」
 
 四時三十分に例によって花子に起こされゴハンを与えてからトイレに入ると小便がいつまでたっても排出しきれず途切れたかと思ったらまだまだ出てくる出てくるというありさまで二、三分はジョージョーしていたのではないか、これは自己新記録だろうななどと考えていたがおそらく実際には一分もしていないのだろうけれど、出し終えたときの爽快感は格別で、それが二度寝のさらなる熟睡を促したのかもしれず、目が覚めたときには時計はすでに九時をまわっていて、慌てて起き上がり掃除とアイロンがけを済ませ、午後からは本当は昨日行こうと思っていたがテレビの天気予報の「今日は十二月中旬頃の冷え込み」という言葉に臆して断念していた健康ランドでひとッ風呂計画を実行すべく荻窪の「なごみの湯 ゆーとぴあ」で九十分かけて風呂につかったりサウナで汗をしぼったり露天風呂と称する要するにただのベランダ風呂で秋にしては高さの感じられない空を覆う薄っぺらい雲をながめたりしていたのだが、風呂は給料直後のせいか中年や壮年や老年のオッサンばかりが目立ち、もっともこんな場所には中年か壮年か老年のオッサンしか来ないのだろうけれど、そのオッサンたちはみな揃って見事なビール腹、自分の足元を見下ろしたら足先はもちろんちんぽこの先っちょも見えないんじゃないかというくらい立派に脂肪で覆われた腹のオッサンたちがなんの恥じらいもなくさらす裸体にでぼくの眼はついつい釘付けになってしまうのだが、腹がスゲエと見ていると、ついでにちんぽこまで見えてしまうから少々気分が悪くなるのだけれど、よくよく考えるに公衆浴場ではちんぽこはタオルで隠すのがマナーであって、ブランブランさせておくのは見苦しいからやめてほしいのだけれど、オッサンたちはみな黒いのだの赤黒いのだの青黒いのだの長いのだの短いのだの、いろんなかたちのちんぽこをゆらゆらさせながら、肩まで湯に浸かってフウといい気持ちになっているぼくの眼の前をすっと通りすぎるのだけれど、湯船に入ったぼくの眼の高さはちょうどちんぽこのあたりにくるから、黒いのだの赤黒いのだの青黒いのだの長いのだの短いのだの、いろんなかたちのちんぽこが突然視界に飛び込んできて、ああ眼にバリヤーが張れればなあなんて考えながらも極楽極楽、他人のちんぽこさえ気にしなければ長風呂はいいものなのだが入りすぎると身体が濡れたトイレットペーパーのようにトロトロのクタクタになってしまうので注意が必要、とはいえ注意力ギンギンで風呂に入るなんてつまらないではないか、風呂とはリラックスするために入るのだぞ、などと理屈を頭のなかでこねていたわけではないのだけれど、そうこうしているうちに九十分などあっという間に過ぎ、風呂から出たらそそくさと退館し、「無印良品」でカットソーやら下着やらを買い込んでから西友の生鮮食品売り場で値上がりしおまけに品不足気味の野菜を見ながらタケエタケエを連発しつつ安いオージービーフのステーキ肉を買い、家に帰って焼いて喰うことにしたのだが、ブランデーでフランベしたらオレンジ色の火柱が立ってちょっと怖かったが味は満足で、風呂でのちんぽこには辟易したが食事で挽回できたから今日はいい日だったということにしておこう。もちろん花子と麦次郎にとってもいい日である。花子は今日はじめて正式に書斎から出て寝室でちょっとだけ過ごしてみた。麦次郎の匂いを嗅いでもまったく興奮しない。午前と午後、二度試してみたが二度とも問題はなく、二度目にはかなり平常心になって、まったりくつろいでいたようだ。麦次郎は毎晩寝室で寝るが昼間はリビングに閉じこもりきりだから、今度は花子を寝室に入れている最中に麦次郎を書斎に連れてきて様子を見てみたい。
 
 夜、おふくろと電話で話す。手術から五ヶ月が過ぎたが、オヤジめずいぶん恢復しているようだ。もう嘔吐も下痢もないらしい。十一月三日の誕生日にはブイネックのセーターをくれとねだられたが、すでに前ファスナーのカーディガンを買ってあると言ったらそれでもいいやと喜んでいた。
 
 大西巨人『深淵』。動物嫌い、ですか…。

 
 

《Profile》
五十畑 裕詞 Yushi Isohata
コピーライター。有限会社スタジオ・キャットキック代表取締役社長。ふだん事務所にこもりっきりだというのに、晴れないと妙にお天道さまが恋しくなる。

励ましや非難のメールはisohata@catkick.comまで